1633「「保守の真髄 老酔狂で語る文明の紊乱」を読んで」(3月14日(水)曇り)
書店で見つけた西部邁の本は、最近彼のいう事を娘さんが口述筆記したもの。それゆえ述者と言うのは西部邁その人のことである。ずいぶん横文字がちりばめられ、ぺダンテイックな読みにくい書き方。しかも老酔狂よろしく議論が飛ぶからわかりにくい。その中を私なりに内容をまとめてみる。
かってテクネーとは人間の生活全般における何ほどかのパターン化された工夫、テクノロジーはその一部で形式化と軽量化の容易な者のみを抽出したもの、人間の生活が全面的に後者中心の単純なものでよいのか。すべてが商品化のプロセスにさらされ、これに適応をもっぱらにするのは主意性、自発性を消失させ、文明にとって命取りになる。平成日本は適応主義に毒されている。
構造的改革が進歩でありうるためには日本国民に長きにわたって作用してきた公徳心に基づかねばならぬ。明治以降の日本は西欧の模倣に終始した。物事の選択で重要なのはまずは伝統!
フランス革命の旗印、自由、平等、博愛、合理は現実の裏付けにとぼしい。秩序のないところに自由を受け入れれば放縦、自然な格差を無視して平等を唱えれば悪平等、競争の現実から離れた友愛は偽善、合理、合理は時に屁理屈に陥る。
大東亜戦争ののち、日本は国家としての独立性、自主性を喪失してゆくばかり。己の国家がどういう文明の経歴を持ち道徳性の変遷を経てきたか、という自己認識に立脚した日本人論が必要だ。
日本国憲法では「主権は国民に存する」とある。本来ここに言う国民はナショナル・ピープルであるべきなのに日本人はピープル(人民)のことと理解している。興論とは一般庶民のコモンセンスに他ならない。世論とは異なる。多数決制は時には多数者の専制もまた避けねばならぬ。
神の前で平等、一人一票はやむを得ぬかもしれぬが、学歴・財産高・納税額などを能力、努力、責任感にみたててそれに応じてあてがう方が合理的かもしれぬ。
自由と民主がセットで用いられている。そして民主の根本思想には平等主義がある。しかし積極的自由の過剰が放縦をもたらすことは自明である。西欧では自由主義と放縦主義の間に何とか境界線が設けられている。あの自由主義は決して社会民主主義となじむものではない。
経済はもともとポリテイカルな内容を含み「世を救け人を救うもの」だが、いつの間にか「市場の交換法則」だけを純粋に取り出そうとする。経済は元々市場と下部構造の上に成り立つ。それゆえに「公正分配」が期待されるが、現実は資本分配率が上昇し続け、労働分配率のとめどない下落をもたらしている。結果市場では需要独占と寡占体の上昇が始まっている。技術革新さえもそれ自体大規模な資本を使ってなされる。さらに貨幣は金と兌換と言う檻があったが、今はそれも撤廃され流通、決済、貯蔵、標準へと機能分化し、すべてを支配しようとしている。あるヘッジファンだーが言う。「カネで買えない物があるんですか。」
平成の世になって戦後育ちの政治家が中心となって考えた「政治改革」「財政改革」「行政改革」「郵政改革」など断行し「日本的経営はもう古い」、これは1990年代アメリカが一極支配に乗り出そうとする中、日本が投票権を持たない「自治領」に甘んじ、これに追随しようとしているに過ぎない。自由放任は物々交換の世界では成り立つが、現代では「国家の国家による国家のための経済」という政策も大切。地方分権も大切だがバランスをとらねばならぬことは必定である。大騒ぎしたTPP問題がある。資本・労働の国際間移動が助長され「ウインウイン」の関係をもたらすは机上の計算で、地場産業の倒壊、個人資本の海外逃避などを招来しかねない。
日本は核武装が必要と考える。第一は日本が核武装諸国に囲まれていること、第二にアメリカから実質的に独立するには自衛力を高めるほかない、という事である。但し核武装に踏み込むには「核による先制攻撃は絶対しない」と憲法に明記すべきだ。
日本国の憲法は見直すべきだ。大体7日間で書き散らしたようなものを不磨の大典とみなすのは神棚の神様を「触らぬ神にたたりなし」とするようなものだ。私は憲法は無くいていい、と思っている。英国では成文憲法がなくい。歴史の流れを重んじ、そこで培った伝統の精神に鑑みて筋の通った議論を議会ですればいい、と考えている。
学校は一種の煉獄のようなもので、行かなくても対応はできる。そこで必要なのは、初等教育では国語の勉強、中等教育では国史の勉学、高等教育では道徳の系譜学に関する考察だ。
一番最後に「人口死に瀕するほかない状況で病院死と自裁死のいずれを選ぶべきか。」
最後に著者によれば自然死と呼ばれるもののほとんどは、偽装なのであって、彼らの最後は病院に運ばれて死んでゆく・・・・。」「その病院で死にゆく者は病院の制御、選択をうけ、みずから苦痛や不安と言った醜態を見せることが少なくない。」。結果妻も失った述者は「病院死でなく自裁死を選ぶとしたら、その方が当然と思われる・・・・」
述者は最近になって水死姿で発見された。これを読んだときに私は「そういう事だったのか。」と納得した。ところが「死の様子に一人ではできぬように見えるおかしなところがある。」という事で現在捜査中とか。どのような結果になるか? (2月22日日記参照)
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