1676「終戦の日雑感」(816日(木)晴れ)

 

今年もまた終戦記念日。

私たちは戦争を私たちは体験しなかった。戦争は大変であったろう、しかしそれは父母の時代のものであり、その災害から父母は私たちを必死に守ってくれた。その庇護の下で成長できた。

あの貧しい、みじめな時代、というのは後からつけた表現。あの頃は食うものも食えぬ、それが当たり前と思って子供時代を過ごした。

横浜で空襲にあったが、覚えているのは逃げてゆく途中真っ赤に燃えていたどこかの寮と防空壕の中で食った渇き飯。戦争も終わり小学校時代、おふくろのいないときに友達と棚の上の砂糖壺を引きずり出して舐めてしまった話。あとで思い切り尻をひっぱたかれた。

しかも恩知らずに今では私はあの戦争に負けて、日本はよかった、と思っているほう。

あの敗戦によって日本は無理やり革命に追い込まれた。農地解放も婦人参政権も、平和憲法も民主主義も・・・・。皆あの敗戦がなければ起こりえなかった。

しかし、国民はとんでもない災厄を経験した。

それを起こしたものが誰かと言えば東条であり、軍の独走で会った。だから彼らに対して恨みがましい言葉を述べたくなるのは当然だ。極東軍事裁判の結果をあの頃の人がどう考えていたか・・・・あまり不当とは考えていなかったのではないか、と思う。

しかし日本人は本質的にはやさしい人種なのかもしれない。講和条約が結ばれたとき、恩赦という形で戦犯たちは出てきた。そして一部の者は戦後の政治の場で活躍した。岸首相、賀屋興宣・・・・。

こうなるとあの裁判で殺されたものととにかく命をつなぎとめた者との差の大きさに驚く。

あの戦争を最終的に決断したのは東条英機であろう。なぜあんな決断をしたか。心の内をのぞいてみたい極東軍事裁判で彼は悪人とされたが、決して悪人ではなかったと思う。経歴を見ても優秀な人間であった。もちろん私利私欲に駆られて開戦したわけではなく、そうすることがオクニのためになる、と考えて決断したのであろう。

彼は決して主戦論者ではなかった。天皇陛下が戦争に反対しており、それに同調する姿勢であった。

しかしアメリカは戦争をしたくて仕方がなかった、と言うのは事実だろう。しかしハルノートなど滅茶苦茶な要求を突き付けられ、周囲の突き上げもあって決断したか。

その原因は、私は日露戦争や第一次世界大戦の経験ではないか、と思う。それを海軍が勧めたわけだが、戦争をしたって国がつぶれるまでやるとは限らぬ。初戦でたたいておいて講和に持ち込めばそれはそれでいいではないか。

国力の差が戦争においてでてくるのは長期戦になった場合である。その場合は確かに日本は米国に比べて劣る。しかし工業力では追いつかぬにしても、朝鮮や満州や台湾やさらには場合によっては中国まで考えれば引けは取らぬではないか。アジア対アメリカの戦争?石油も仏印に進駐し、確保できた。・・・・・そんな風に考えた。やってみなければわからぬ・・・・それは勇気ある大和民族の心に流れる者だったかもしれぬ。

しかし誤算が生じた。最初に真珠湾を攻撃したことだ。ルーズベルト等はあれを利用してアメリカを一つにまとめ国威を高揚させることに成功した。

戦争は勝者であり続けることができるなら楽しいものかもしれない。アメリカはインデイアンを追い詰めて自分たちの国を作った。その成功体験は彼らの頭に染み付いているはずだ。アメリカと日本を比較すれば日本はアメリカのなん十分の一かの小さなインデイアンの親類が住むような国に移ったに違いない。負けるわけがない。とすれば面白い・・・・。勝つことが分かっている戦争は面白い・・・・だから国も一本にまとまった米国は日本の講和話などに耳を貸さぬ。そしての敗戦がほぼ決定的になった、昭和20年に至っても執拗に日本たたきを繰り返した・・・・そんなことではなかったのか。

日露戦争のおりはロシア全体に日本と戦争するという気分が蔓延していなかった。それよりもロマノフ王朝そのものの存続が問題であった。それゆえアメリカの提案した講和話にしぶしぶのっかった。状況の差を見抜けなかった。

・・・・私の一つの思い、歴史を否定するのではなく教訓として生かしたい。あれからやみくもに「戦争は反対」と叫ぶだけでは、これからの日本は築けぬ。反対は勿論だが現在のような状況の中でどうしたらいいか、それを考えねばならぬ。

 

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