1690「「書とはどういう芸術か」を読んで」(101日(月)晴れ)

 

古本屋で見つけてきた。石川九楊は京都大学法学部を出たが、子供のころから書道を学びその分野で成功した人。ウイキペデイア記載の所論によれば「明治期に西洋文化が日本に流入する中で書道もその影響を受けて西洋の造形芸術論的な立場から理解されるようになった。石川はこのような西洋的な視点からの書論を批判し、筆蝕や書の言語表現としての側面を重視した独自の書論を展開している。 彼によれば、世界最高の書は、蘇軾の『黄州寒食詩巻』であり、「書の中の書」であるという。

私は書を初めて7年くらい。もっとも書を習うと言っても読売文化センターで2週に一度習うだけ、いつもその日が近づくとあわてて墨と筆を取り出すという不真面目ぶり。それゆえちっとも進歩しないのだが、疑問に思い始めたことがいくつもある。

文字は読めればいいのではないのか。もとの字がわからないで臨書をする者がいる、これでいいのか。そもそも上手な字とは何なのか。そしてこの書のタイトル「書とはどういう芸術か」・・・疑問にぴったりに見えた。この本はなかなか読みにくい文章だが、この書はそれらの疑問にある理解を与えているところが素晴らしいと感じた。

明治初期の議論。評論家小山正太郎「書は基本的に言葉が書かれたことによって生まれるものであって、言葉を書きつけたものに過ぎない。書に感動するのは実は書かれた語句に感動しているだけではないのか。」これに対しあの岡倉天心は「東洋の書は文字の大小、配列。形を工夫するのであるから美術として扱ってもよいのではないか。」と反論している。

なぜ言葉を書きつけたにすぎぬ紙切れが美しいと感じるかの議論は、著者によれば「書は文字の美的工夫」「書は文字の美術」「書は線の美」「書は人なり」の四つに分類される。

しかし著者はこれらの論は「書字」を「文字を書く」ことだと考え、さらにこの「文字」を線からなる図形、つまり「造形」と考えたところに誤りがある、と言う。文字は決して造形ではない。文字と呼ぶ物は、言葉の書かれた跡、否言葉そのものである。筆跡とは書かれた言葉の跡で、肉筆ともいう。肉筆の書きぶりこそが書の生命であり、書の美術の秘密もそこに眠っている。肉筆の書きぶりの源泉は筆記具の尖端と紙の関係に生じるドラマである。そのドラマを筆者は「筆触」と名付け、それが書のもとである、とする。それをベースに「書は「深さ」の芸術である」「書は速度の芸術である」「書は力の芸術である。」「構成の存在を無視できぬ」などの議論を展開する。

さて具体論:筆触はあくまで書字の「字画筆触」であり、その核心部分に「起筆、送筆、終筆、転折、はね、はらい」をもっている。起筆、送筆、終筆は「トン・スー・トン」の構造と考えればいい。この筆触の発見は波磔に始まる。篆書以前の文字に上手下手はない。唐以前の書に匿名が多いのもこの理由だ。書は六朝北魏の楷書(正しくは石に刻字された行書体)をへて、ようやく初唐代に「起筆、送筆、終筆、転折、はね、はらい」の六要素を獲得した。但し文字は隷書以後一般には楷、行、草の順で発展したとされるが、事実は草、行、楷の順である。

次に重要なのが紙とそのもたらす表現空間の発見である。かっては竹簡や木簡に書かれて文字はその材料的制約を受けた。このなごりは写経や現在の便せんの罫に引き継がれる。王義之に象徴される草書体が重要なのは、これによって書を竹簡や木簡から完全に開放したところにある。加えて毛筆の発見があった。文字の具体的・現実的な力を抽象化した硬筆とは異なる表現上の力としてあらわすことが可能になった。

顔真卿の「蚕頭燕尾」などを経て、三折法が完成していった。その仕上げの位置にあるのが黄庭堅の「李大白憶旧遊詩巻」などであるが、これは李白の詩である以上に黄庭堅の詩そのものであると感じさせる。筆・墨・紙の発展と歩んだ筆触の展開が、草書、行書、楷書を生み、三者の関連する構造を作り上げた。「書は筆・墨・紙の芸術である。」とはこれを言う。

表意文字が進化して表音文字が生まれたという考えは文字から見た話し、中国語では文字が成立するやそれを言葉の構造に取り込んだ。中国語の属領語に過ぎない日本語も同じ。しかし日本は独自のものも発展させた。それが平安後期の和洋の書、とりわけ和歌など「仮名」の書であろう。ただこれは、書く事の長い歴史を持つ中国の書に比べれば「コップの中の嵐」にすぎぬ。

最後に書は「文字を話し」「文字を聞く」と言う文字中心型の東南アジア漢字文化圏固有の芸術であると総括したうえ、「書は現在の芸術でありうるか。」と問いかける。文字が言葉に取り込まれている以上、言葉は素材、書は別物という事はあり得ぬ。近代に入り、日本語の中に西欧語が流入し、それ抜きでは日本語が成立足なくなった。そして「追い詰められた形で書は可能かと問い詰められるにいたった。近代、現代、現在の詩句を書くというのは、その中で言葉に対し「書が現在もなお生きた表現力」を持つか否かにかかっている。しかし紙にも筆触にも墨にも表現の抽象度を高める、それ自体が「発見」の途上にある以上、著者は書は終わりはしないと考えている。

 

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