1735「父親の遺品のカメラを売る」(4月24日(水)晴れ)
「全部で3万円です。身分証明をできる何かを持参のうえご来店ください。」
押し入れの一画を占めていた父親のカメラを売った。
私は写真にそれほど凝っているわけではない、今はデジタルカメラの時代、私にはスマホのカメラはちょっと物足りないが、小型デジタルで十分だ、もう使うことはあるまい、そんな風に考えて、前々から売却しようと考えていた。それをやっと実現したのだ。
父親は凝り性であった。
高等工芸をでたが、そのころから好きであったのか、油絵が趣味で会った。二科展に入選したことがあると言っていた。仕事を辞めてから創造美術という美術団体の役員をやった。自宅で創作を続け、毎年杉並区のコンテストか何かがあるときは出品を依頼されていた。
大工道具にも凝っていた。
戦後にすぐ建てた家も、その家の増築も、私が結婚したときに建ててくれた家もみな父が設計し、図面を引いた。台所の天井に明り取りをつけたり、北側に窓をつけ、風通しをよくしたりするなど素人にもわかる、独特の設計をした。
クラシック音楽も趣味であった。
ステレオに凝り、ラジオの音楽であろうか、ずいぶんたくさんテープに取っていた。CDも随分買いそろえていた。もっとも聞くだけで歌ったり、作詞、作曲をするわけではなかったが・・・・・・。
写真もその一環であった。
両親は昭和15年に結婚し、16年に私が生まれた。20年に戦災にあい、焼け出された。長野の山奥に疎開した。そして22年に新しく建てた今の家に引っ越してきた。食うものがない時代、母親は毎日畑仕事に精を出し、父親は働いた。後から考えるとこのころが父と母が一番仲睦まじかったように感じる。母の写真もずいぶんとった様子、フィルムが少し残っている。
長野で私と母親、さらには生まれて間もない弟の写真、つららの写真、東京に出てきてから弟と一緒に取ってもらった写真、カボチャの花と戯れる私、いづれも懐かしい。
当然、白黒であった。彼は現像も焼き付けもやった。新しく建てた家には暗室があった。もっともそのうちに風呂場に代わってしまったが・・・・・。夜中に写真を現像し、フィルムをぶら下げて乾燥させる、バットの中に入れた印画紙に画像が現れる・・・・・いずれも私の記憶に残っている。
子供たちも手伝わされた。人物の後ろから光が当たるときれいに撮れる、しかし顔が暗くなると板に銀紙を張りつけた反射板を作り、子供たちに持たせ被写体の顔を照らさせた。「写真を撮ってくれる。」といわれると、家族も子たちも緊張し、うれしくなった。
カメラにももちろん凝った。私たちが父の建てた土地に移ってきたのは昭和22年ころだから、25年ころの話であろうか。生活はまだ苦しかった。母親は父親に「金がない。生活できぬ。」と訴えた。父親は、怒りながらわずかの金を渡して出勤した。その日に購入したカメラが届けられ、母親が私にこぼしていたのを覚えている。
晩年になると凝り性なだけに人と話すとき、自分の得意分野で蘊蓄を述べたがった。得意の話題が終わると「じゃあ、写真を撮ってあげましょう。」と提案した。周囲は協力しながら又か、と思っていたのかもしれない。
2000年に父親が亡くなったあと、弟といろいろ協議し、父親の家を取り壊し、そこに共同でアパートを建てた。遺品を分けたが、カメラ類は私が引き取った。300㎜のプロが使うような望遠レンズまであった。これは手におえぬと、私は息子と協議し、一部を引き取らせた。それでも残りがニコンのF4、リコーの二眼レフ、それに5,6本のレンズが残っていた。それをさらに次の世代に引き継ぐわけにもゆくまいと今回決心したのだ。
「こんなものを買う人がいるのですか」。」とカメラ屋に聞く。
「今はで何でもできるでしょう。急速に時代が変わりました。でもそういう時代だからこそ、こういう写真機を好む人もいるのです。ただフィルム一本でもずいぶん高くなりましたね。ほかにも面白そうだから安ければ趣味で買う人、それから中国人もずいぶん買ってゆきます。」など話していた。
タウンセブンにあるカメラのキヨシに金を受け取りに行く。店内を除くと古いカメラが売られていた。私が売却したF4に似たニコンのカメラが4万円以上で売られていた。それを見てあのカメラ類も売るときには確実に10万以上の値段をつけるのだろう、と想像した。
ほかの用事も終えて家に戻り、押入れを開けるとカメラのあった空間がずいぶん広く見える。何か一つ懐かしいものをなくしたような気もしたが仕方あるまい。この次は、父親の沢山描き残した絵も処分せねばならぬ、と考えている。
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