1747「張掖にて・・・・公園は誰のものか」(7月10日(水)曇り)
今回の敦煌旅行で、蘭州ら敦煌に向かう途中、張掖という町に着いた時の話。
河西回廊、砂漠であるから天気はいつもよい。朝ホテルで眼下の広場を眺めると、赤い衣服に身を包んだ女性が三人、剣を振り回し、剣舞の練習を始めていた。
手前の方では男が数人太極拳のようなものを練習している。
アフリカなど一部の地域では写真を撮られることを嫌う。あれは魂を抜かれると信じているからだ、と聞いたことがある。しかし中国人はそんな風には考えない。早速写真を数枚。もう少し中国語がうまくて、もう少し踊り手が若くてきれいなら、声をかけて一緒に写真を撮りたいところ・・・・。
昨日ガイドの話で、ドイツから団体の観光客が来ているから、出発を10分早くしてくれ、ということであった。言われた通り、早めにチェックアウトすると、ホテルの外にその観光客のものらしいバスが停まっていた。
バスの帯に通過してきたらしい都市の名前が印刷してあった。
どうやらドイツのどこかの都市から出発し、ギリシャあたりから、コーカサスの国々を超え、チベットを超えここ張掖、さらに上海にまで行くツアーのようだ。30日間かける、というような声を聞いた。
弟との会話。「何キロあるのだろう。」「地球一周が4万キロだから1万5000キロくらいか。」「それなら1日500キロバスで移動するのか。」
船で世界一周、バスでアメリカ縦断というのは聞くが、ユーラシア大陸縦断!
平和な時代になったものと感心。みなお年寄りのようだ!悪くないなあ!
どちらの話もお年寄りの元気を見せつけられた感じがした。
朝食後にホテルから見えるマルコポーロも訪れたという大仏寺を訪問。
本堂には巨大な涅槃仏。木製で骨組みを作りだんだんに周りを作り完成させる。そのため中は空洞とか。北向きにおかれ顔を西を向いているとか。やさしいお顔。
左右に二体の仏。十八羅鑑像、裏手に回ると菩薩像など。
ところで裏手にある博物館に行くと大蔵経の写しなどが展示してある。
由緒あるものだそうだが、あの文化大革命の折に寺ごと破壊されそうになった。
そのときとっさの機転である尼さんが部屋と部屋の間にわずかな空間に大蔵経を押し込んで隠したという。その尼さんの像が中国人ガイドが文化大革命のときに押し寄せてきた紅衛兵を「あの悪者!」と呼んでいるのが印象的であった。件の尼さんの像が植え込みの中にあった。
それから私たちは万寿寺の九重の塔を見物した。
その手前がちょっとした公園になっているのだけれど、老人たちが派手やかな器具を使って、歩行練習、屈伸運動、もみもみなどトレーニング中。
公園を年寄りの運動の場として使うという発想が面白いと思った。日本では公園は子供のためにある。
別の一角で老人が大きな筆を用い、コンクリートの地面に水で見事な字を書いている。
隷書スタイルだ。やってみろというから、書道を習っているものとして見過ごせぬ。
愛という字を書いて見せた。お世辞にもうまくない!しかしあの長い筆は案外に書きやすいと感じた。
その後、東京に戻って、中国人に聞いてみた。すると
「中国では公園はお年寄りの健康活動の場として利用されている。無料で健康が維持されるから医療費も安く済む。子達は公園で遊ぶより勉強すべきなのだ。」
すべて年寄り向けにしろ、とは言わぬが年寄りも楽しめる公園づくりをすべきではないか。
書道具屋に行き、あの長い筆を探した。安い物で一本4万円、高いものは16万円と聞き、びっくりした。しかしこれも中国人に聞いた話。
「中国では毛を売っている。あの長い筆はこれを買ってきて自分で作る!」
確かに箒の親類のようなもの、できるのかもしれぬと妙に感心した。
しかし日本の公園で手作りの筆を使って漢詩を書いて見せたら・・・・警察が飛んでくるかな?
最後に張掖の町のことを書いておこう。
張掖とは「国の臂掖を張り」(漢書地理志の応劭注)、西域に通じるという意味でつけられた名前だという。 歴史は古く、漢代に霍去病が匈奴を破り、以後シルクロード上の要衝となる。水と土がよく、産物も豊富なため「金の張掖」と称される。40874平方キロ、人口128万人。
この町は明の時代に整備されたらしい。城壁があり、街の真ん中に時を告げる鼓楼がある。前夜、たどたどしい中国語を使いながら、ホテルから鼓楼まで歩いてみた。ずいぶんにぎやかな、それにかなり近代的な街だ。若者やカップルが夜遅くまで闊歩している。蘭州面という牛肉の乗ったこの辺の名物のラーメン屋があった。
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