175「雨の七夕」(7月7日 小雨)

霧雨がしぶいているようだ。

1年に1回の七夕に降る雨は、無情の雨に思えるが、統計的には梅雨のさなかだから曇りや雨の夜がおおいのだそうだ。もっともそういうときはカササギが天の川に橋をかけてくれるから、牽牛と織姫は密かに会っている、というような話も聞いた事がある。本来七夕は旧暦の7月7日をいう。新暦では本当は8月である。仙台の七夕、秋田の竿燈、青森のねぶた祭りなどはこちらにあわせて祝う。この時期ならば晴れる日が多く、天の川も見られようというものである。

七夕は、中国の乞巧奠に由来するそうだ。乞巧とは巧みを乞うこと、奠は祭るの意味。古来中国では、白光を放つ二つの星、牽牛、織女を、それぞれ農耕をつかさどる星、養蚕をつかさどる星と考え、人々はその芸の上達を願って祭りを行ったのである。ちなみに牽牛星はわし座のアルタイル、0.8等の星で距離17光年。つまり17年前の光を地上で見ていることになる。織女星はこと座のベガ。0.0等、26光年。

日本では宮中の儀式として奈良時代に始まった。平安時代の記録によれば清涼殿の東庭に朱塗りの高札を立て供物などを供え、星合を持ち、管弦・作文などのあそびをした。室町時代以降は、娯楽の面が盛んになり、歌合せ、蹴鞠、碁、花、貝あわせ、楊弓、香など七種の遊びがおこなわれるようになった。

しかし七夕は、七夕という中国語を、「たなばた」と日本語読みしている点からも日本古来の風習につよく結びついている。

七夕のころは丁度稲が開花期に入るとともに、風水害や病虫害の襲い掛かるころ。人々は秋の豊作を田の神に祈り、禊をして心身を清め、祖霊を祭るお盆の行事に入った。日を定めて帰ってくる祖霊(神)に海山の幸を供え、新しく織った御衣をささげた。御衣は選ばれた乙女「棚機女」(たな女)(たなばたつめ)が特設の機屋(はたや)の棚機で心をこめて織り上げたもの。「たなばた」の語はここから来ている。

7月7日が5節供の一つとして徳川時代に一般庶民に定着した。七夕節供には昔は「牽餅」というもち菓子を食べていた。米粉と小麦粉を半々ぐらいにまぜて練りひも状にしたものを二本よりあわせて蒸したものである。現代ではこれがソウメンなどに変わった。

また葉竹飾りの風習は、本来は送り神に託して竹につけた人形を流し穢れをはらう七夕ながしに始まったものである。葉竹が少ないせいか、七夕飾りも少なくなったように思うが、見つけるとつい仔細にのぞいてみたくなる。そういえばクリスマスツリーセットというのは玩具売り場でよく売れているし、季節になるとデパートなどでもその大きさを競うけれど、七夕飾りはそうでもないねえ・・・。

1年に1度くらい大人も混じってそれぞれの願い事を短冊に書いて飾ってみるというのはどうだろう。中高年用の七夕飾りがあってもいいと思うのは私だけだろうか。

七夕や 今ひとたびの 青春を

母は俳句を趣味としていた。私は母が亡くなってからその句を整理しておいた。上の句はその中のものである。しかしこの句は今の私にもすっぽりと当てはまるかもしれない。

ただし母は上の句とならべて以下の句を書いていた。

七夕や 患者それぞれ 願ひをこめて
七夕や 星に願ひを 四つ五つ

母は50代後半に脳溢血で倒れ、半身不随となった。以後、20年近くに及ぶ車椅子と病院生活が待っていた。過ぎ去った日々に対する思いは、私どころではなかったに違いない。人間、元気なうちが花!

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