194「岳温泉と会津若松」(9月1日、2日 晴れ)

夏休み、どこにも行かぬはつまらぬ、と岳温泉にドライブとしゃれ込む。

宿は鏡が池碧山荘。安達太良山を背にした温泉街の真下にある。宿から鏡が池公園の眺望がすばらしい。珍しく酸性泉とかで湯上りの肌がすべすべになる。

温泉街を歩くと丹羽氏入府340周年なる青いのぼりが目に付く。丹羽氏は織田信長の臣丹羽長秀の一門である。徳川の世になって二本松に再建させてもらったのだろう。

岳温泉は、丹羽二本松時代、今よりずっと山の上に温泉街があり、湯女も許可され、一時期は100人以上もいたという。それが1824年の山津波で壊滅し、不動平に再建したものは戊辰戦争で焼き払われ、現在の温泉に隣接した深堀村に作られたものは火事で消失するなどいろいろあった。現在のものは大正末期に木村泰治が権利一切を買い取って再建したものである。1955年に全国で7箇所の国民保養温泉に指定され、82年には「ニコニコ共和国」独立宣言なるものを行い、その名が広く普及するにいたった。

宿の仲居の話によると、今はすいているが、春秋はサクラに紅葉、夏は夏休みで山登り、冬はスキーと四季を通じて客は多いと言う。なかなか洗練されていて、中心街を貫く清流が気持ちよい。中心街の一番上に温泉神社と湯の森公園があり楽しめる。

翌日は会津若松観光、鶴ヶ城に白虎隊と決めた。

岳温泉から車で行くには、道の駅というところから115号に入り、長い土湯トンネルを経て猪苗代湖に出る。ちょうど雨模様の霧も晴れ、この間の山道はなかなか快適なドライブであった。あとは49号を猪苗代湖、野口英世記念館などを見ながら西に進めば出発地から1時間半くらいでつく。

鶴ヶ城は1384年葦名直盛が東黒川館を築いたのが始まりと言われる。1583年、蒲生氏郷が七層の本格的な天守閣を築き、名前も鶴ヶ城と改められた。幕末戊辰戦争で約一ヶ月の篭城戦を戦ったが、1874年(明治7年)に取り壊された。後に、城跡が史跡として認定され、1965年に昔の姿そのままに再建された。

1から4階は展示室になっている。甲冑、刀、参勤交代の様子の絵などがある。九代藩主松平容保公は1835年生まれ、美濃高洲藩主の6子だが、養子となった後、9代藩主となる。1862年に京都守護職を任ぜられ、朝廷に忠誠を尽くしたが、禁門の変、孝明天皇崩御、大政奉還、戊辰戦争と続く時代の中で朝敵の汚名を着せられた。晩年東照宮宮司になり、1893年58歳で逝去。その写真は若いときのりりしい武者姿で何か神経質に見える。

またこのお城は滝廉太郎の「荒城の月」の城との説があるらしく、崩れかかった取り壊し前の写真が印象的。

天守閣に登ると、その眺望と共にセミの合唱と格子越しにくる風が気持ちいい。

城内の一隅に麟閣という茶室がある。

維新をさかのぼること250年位前、茶道の祖、千利休が主君秀吉の勘気にふれ、切腹して果てた後、次男の少庵が、当時の会津藩主蒲生氏郷にかくまわれた。彼は利休七哲の筆頭格に上げられるほどの茶人、その関係だったのだろう。麟閣は、少庵が蒲生氏郷のために建てた茶室と言う。三畳台目で観光客は柵の向こうにしか見る事ができぬが、野点でお茶とお菓子を戴く。

帰りに飯盛山に行く。これを友人の一人がかってメシモリヤマと読んで失笑をかったが、なんだか品がない。階段を登りきったところに白虎隊の一人一人の墓と自刃の地がある。1868年4月江戸城開城、5月奥羽越列藩同盟成立、7月二本松城・越後長岡城落城の後、8月末官軍は諸処の戦いに勝利した後城下に侵入。当初300人いた白虎隊は20人くらいになった。飯森山に逃れるが、お城近くに上がった火の手をみて自刃した。そういえばお城に白虎隊一人一人の写真があったが、ずい分おとなびていたことを思い出す。鶴ヶ城はその後篭城するも、1ヶ月で開城させられた。

あとは高速をひた走りで帰った。二日間、東京(荻窪)から往復約600キロ、片道5時間たらずのドライブであった。お疲れ様!

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