21「クリスマスカードの返事(私の軌跡)」(12月4日  曇り)

T病院ホスピス病棟の皆様
いよいよ本格的な冬になってまいりましたが、皆様、いかがお過ごしでしょうか。
このたび、なくなった父へのクリスマスカードをいただきました。
本当にありがとうございます。
早いもので、父がなくなってから、もう1年が過ぎ去りました。つい先日1周期ということで、私ども家族、うちそろい墓参してまいりました。
父の最期につきましては、I先生を始め、皆様に本当にお世話になりました。

私事になりますが、父は私の家と同じ敷地の別棟に住んでおりました。と、言うよりも戦後、父が所有した土地に私が家を建て、住み着いていたのです。
父のいなくなった家は、弟と相談の上、来年、取り壊す予定です。私どもは何回にも分けて父の遺品を整理いたしました。父は本当に趣味が広く、物持ちのよい人で時間をかけねばなりませんでした。自作の絵画、書籍、写真の道具、大工道具、レコード、CD、日常の食器などものすごい量です。私どものところで引き取ったり、友人に上げたりしましたが、多くはビニール袋にいれ、不燃ごみとして出す羽目になってしまいました。

ひっくり返しているうちに父と母が結婚したときの写真が出てまいりました。二人は昭和15年に横浜で結婚し、翌年私が生まれました。技術者の父がきまじめにしゃちほこばっております。脇につつましやかに母。
昭和20年に横浜空襲があり、私たちは焼け出されました。母に手を連れられて、真っ赤に燃える銀行の寮を見ながら、坂の途中の防空壕まで逃げたことを覚えております。しかし、それは子供としての見方、父は文字通り一文無し、桑折一個になってしまった、と申しておりました。それからしばらくして私は、母と生まれたばかりの弟と共に信州に疎開したのですが、父は生活の糧を得るために必死で東京で働きました。
昭和22年、父の努力が実り、杉並の今の地に家が建てられ、私どもは引っ越して参りました。昭和42年になって、私が結婚することになり、その敷地の裏に父が家を建ててくれました。その後その家は建て直しましたが、甲斐性のない私はあいかわらず父の土地を利用しているというわけです。

私は、今40坪近くの家に、たった一人で生活しております。妻は6年前に病気で亡くなりました。子供は3人いましたがそれぞれに結婚し、他所に住み、もう孫の一人は来年小学校に入ります。炊事、洗濯、掃除、犬の世話、とすべて一人でやりながら「女の仕事は大変だな。」とぼやいております。

この1年の間に相続手続きもほとんど終わり、父の死がようやく過去のものになろうとしています。何度も父と母はもういなくなってしまったんだな、私の世代になってしまったんだな、淋しくなったなと実感します。そして母がいなくなった晩年、父も淋しかったのだろうな、と考えます。

人生についてもいろいろ考えました。しかし、私の場合結局行き着いたところは「死んだら何も残らない。だからこそ死ぬまでせいいっぱい楽しんで生きよう。」ということです。長く、元気に生きるために健康には留意しておるつもりです。毎日近くの公園で行われるラジオ体操に参加し、私よりもっとお年を召した人ががんばっていることに勇気づけられております。

しかし、人間いつかは死ぬ・・・・。それはわかっておるつもりです。私自身がいつかご厄介になるかもしれません。そのときは父同様よろしくお願いします。

末筆ながら、T病院の発展を祈って筆をおかせていただきます。T病院に幸せなクリスマスとお正月が来ますように・・・・。


                         阿笠xx長男  阿笠湖南