210「江古田古戦場碑」(11月13日  曇り)

朝のラジオ体操で知り、杉並レクリエーション会の行う「都内史跡旧跡ハイキングその54」に参加した。コースは「西武新宿線沼袋駅―整地跡―江古田古戦場碑―北野神社―野方配水塔―東福寺―氷川神社―大江戸線新江古田駅」の半日コースだが、江古田古戦場碑が興味深かった。江古田・沼袋の戦いは、日ごろ散策する石神井公園にあった石神井城、荻窪八幡神社にある太田道灌戦勝祈念の槙などと関連するからだ。そこで文献、ウエッブサイト等でこれについてまとめてみた。

室町幕府は、関東を支配するために鎌倉に拠点を置いた。これを鎌倉公方といい、初代は足利尊氏の長男義詮があたった。関東管領というのは鎌倉公方を補佐する役。1363年幕府が上杉憲顕をはじめて管領に任命して以来、以後上杉一族が世襲していた。しかし1439年管領上杉憲実が公方足利持氏、義久を倒し、鎌倉公方は一度はほろびた。

1447年に足利持氏の子成氏(万寿王丸)が鎌倉公方に復権、上杉家の庶子で、鎌倉で扇谷持朝の婿となっていた上杉憲忠を関東管領に任命した。しかし両者の確執は深く、ついに1454年公方成氏は憲忠を誘殺するにいたった。享徳の乱の始まりである。

上杉の老臣長尾景信は、上杉家の本家筋で14歳の顕定を越後から呼び寄せて擁立、上州にたてこもり、成氏と4年にわたって戦った。成氏は敗れて下総古河(茨城)に敗走、以後古河公方と呼ばれるようになる。顕定はついに八カ国を切り従え、山内殿に移り、関東の成敗をつかさどることとなった。これ以来山内殿顕定と扇谷持朝の子定政の二人が、公方家とあるいは敵となり味方となって戦いの止む事がない。

1476年、跡目相続の問題から、景信の長男長尾景春が武蔵鉢形城により、上杉両家に反旗を翻した。扇谷上杉の執事の太田道灌が、駿河今川氏の家督争い調停のためでかけているすきに、五十子(埼玉県本庄)で顕定、定正と戦いこれを退けた。景春に呼応する在地武将が数多く出現した。相模の矢野氏、金子氏、越後氏、大石氏、海老名氏などだが、最大の勢力は武蔵の豪族豊島氏で一族の赤塚、板橋氏等を率いて叛旗を翻した。

上杉定正は、戻った太田道灌にその掃討を命じた。彼は、伊勢新九郎こと北条早雲と同じ1432年に生まれである。これより先1457年に、主命に従い、在地武将江戸氏をおいだし、江戸城を築き、武蔵国の領主たちを支配化下にまとめている。

道灌は 豊島泰明の平塚城(現北区)を急襲した。豊島氏棟梁 豊島泰経は平塚城救援のため石神井城(現練馬区)、練馬城(現練馬区豊島園)より援軍を派遣した。

1477年4月13日、太田軍と豊島軍は、江古田・沼袋で妙正寺川をはさんで正面から激突した。当時妙正寺川は、ずっと広かったそうである。この戦いで、豊島方は、豊島泰明、赤塚、板橋などの主力武将が戦死し、大打撃をこうむった。翌14日太田軍は、石神井城にたてこもった豊島泰経を包囲した。降伏勧告を受け入れたように見せ、城の補強を図ろうとした泰経を、道灌がふたたび攻撃、ついに4月28日石神井城は落城した。明治時代に書かれた照日姫伝説悲話(「照日の松」)は、この時の話に基づく。豊島泰経は、その後矢野氏を頼って小机城(現横浜市緑区)に落ち延びるが、2ヶ月あまりでここも落城、豊島氏は事実上滅亡する。

道灌は、農兵分離された軍事専門の雇兵をもち、むかうところ敵なしの武将だった。その上戦国の世にあって歌人でもあった。今でも各地に山吹の里伝説が残っている。しかしあまりに力がありすぎた故であろうか、1486年主人の上杉定正によって、謀殺されることになる。その後、両上杉は争い、力を弱めて行く。1546年河越合戦で早雲の孫で三代目の北条氏康が上杉連合軍を破り、扇谷上杉(朝定)は滅亡、山内上杉(憲政)は6年の後、越後の謙信を頼っておちのびることになる。

北条早雲は、道灌亡き後、江戸はおろか関東平野の半分を手にいれ、戦国時代を通じて北条五代、百年の基礎を築いたのである。江戸城は、良く知られているとおり、上杉・北条氏に属した後、1590年、徳川家康が入城、1636年までに4回にわたる大増築を行い完成させた。

新青梅街道ぞいの江古田古戦場碑は、妙正寺川が改修工事中で工事現場の中にあり、歴史をしのぶどころではない。時代は変わるもの、と苦笑いしながら次の史跡に向かう。

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