233「BC級戦犯」(2月3日(曇り))

ちくま新書田中宏巳「BC級戦犯」を読む。

「本書の目的は、太平洋戦争の歴史を日本の近代史にはめ込むことであり、戦犯裁判を戦争史の一環に組み込むこと出る。」前半で太平洋戦争を4つの戦争にわけ、そのながれと相互関係を明らかにしながら、この戦争を構造的に概括、後半ではその帰結として起こった帰還、歴史に見捨てられた感じのするB,C級裁判等について述べている。太平洋戦争を理解し、戦争の本質を知る上で大変面白かった。以下に要旨をまとめる。

太平洋戦争は、戦域によって戦う相手が違ったうえに、戦闘期間、戦闘形式、日本軍の戦域とのかかわり方も違っていた。

満州戦域=対ソをにらんで関東軍が配置され、陸軍が爆走する震源地となった。しかし南下政策が優先方針となったため、昭和20年から約10日間、ソ連軍の南下に伴う戦闘が行われただけであった。

中国戦域=盧溝橋事件に始まる昭和12年7月から昭和20年8月まで。後半になると中国空軍が優勢に転じ、日本は地上軍の反撃でかろうじて戦域を維持した。

南方資源地帯地域=昭和16年7月の南部仏印進駐がアメリカの全面的対日輸出を招いた。マレー半島、インドネシアを占領した後はそのままの状態で終戦を迎えた。

西太平洋地域=真珠湾攻撃に始まる昭和16年12月から20年8月まで。日本海軍の不用意な進出作戦とフィリピンからオーストラリアに脱出したマッカーサー司令官がオーストラリアを反抗の拠点としたことから予想しない展開となった。
日本は4つの戦争をしたがアメリカは西太平洋のみ、これが両国が投入する戦力に大きな差を生んだ。この地域で苦戦した結果、日本は関東軍を次々と南方にまわし、さらに昭和20年になってソ連侵攻のおそれ出てくると中国に展開する軍を満州に回した。
この地域の戦争はガダルカナルからニューギニアを経るマッカーサーラインでの消耗戦が戦争全体に終止符を打った。また昭和18年後半から始まる空母機動部隊と海兵隊のB29等による攻撃が日本本土を焦土と変えた。

戦闘停止は、昭和20年8月15日であるが、一人一人の将兵にとっては武装を解いた後、復員船で故国に戻り、自分の家の敷居をまたいだときが戦争終了である。四つの戦域で行われた戦闘もほぼこれに見合う、停戦協定の調印が実現したが、帰還という大移動と、戦犯裁判が残った。

戦犯裁判は無条件降伏の延長上にある。ポツダム宣言第十条に「・・・吾等の俘虜を虐待せる者をふくむ一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加えられるべし。」

おおむね国家を戦争に仕向けた政府および軍指導者が、ヴェルサイユ体制及びワシントン体制が作り上げた平和を破った罪で、A級戦犯として、極東裁判で公開で裁かれた。起訴人数28人、死刑判決7人。

これに対し、戦闘中に捕虜や現地住民を虐待した将兵が、ジュネーブ戦時国際法を破った罪で、BC級戦犯として裁かれた。BとCの違いは前者が士官、後者が下士官以下を対象とした区別に基づくが、実際にはほとんど意味がなかった。これらは米、英、豪など七カ国が主宰国となり、海外の49の裁判所でほとんど非公開で行われた。起訴人数5700人近く、うち死刑判決934人、これ以外にソ連及び中国共産党政府が行った戦犯容疑による留置と裁判がある。

BC級裁判は、A級裁判に比し歴史的意義では劣らぬが、日本人が思い出したくない行為等がおおすぎるせいかなぜか触れたがらない。英国やオーストラリア、オランダのように日本軍の捕虜になったものを裁判官に選んだり、罪状調査、陳述などを省略するもの、通訳のつかないものも多数あった。判決は気まぐれ的であったり、裁判の基準が場所によって違ったり、時には報復的な裁判も多々あった。

また日本人容疑者にとって「受命行為者責任主義」で「指揮官の命令による部下の違法な行為も戦争犯罪」と認定されたことも影響が大きかった。

これらの裁判は昭和26年4月、オーストラリアが主宰したマヌス島法廷における判決を持って終了した。死刑を免れた者の多くは日本に返され、巣鴨で服役した。昭和27年講和条約の発効と共に、日本はあらゆる機会を通じて戦犯の釈放、刑期の軽減を各国に要請し、次々に実現していった。昭和32年にA級戦犯であった岸信介等がアメリカ政府と交渉し、翌33年に最後の数十名が釈放され、戦犯は皆無となった。

読み終わってふと思う。戦争犯罪人に対する取り扱いはこの戦争で変わったのだろうか。サダム・フセインはどうなったか、タリバン関係者はどういう処遇をうけたか・・・・気になるところだが、ニュースには流れてこない。

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