1983年生まれ金原ひとみ氏が「蛇にピアス」で、84年生まれ、綿谷りさ氏が「蹴りたい背中」で今年の芥川賞を受賞、と聞いて正直驚いた。
「日蝕」の平野啓一郎みたいに、歴史的事実をよく調べ、凝りに凝った小説なら、ともかくも通常の私生活的小説を書くには、やはり人生経験が必要だ、そのためにはある程度歳をとっていないと、と考えていたからだ。
「蛇にピアス」を読み始めたとき、生理的に受け入れがたいものを感じた。しかし読み進むにつれて作者自身が感じていることをうまく文章化できる能力に驚いた。プロットもなかなか素晴らしく、ストーリーに緊張感を感じさせる。読み終えて作品全体に流れる哀しみのようなものを感じた。主人公のささやかな願望が最後の「大丈夫、アマを殺したのはシバさんじゃない。」に託されていた。アラ筋は以下の通り。
「フリーターの私は大きなピアスをつけることに凝っていた。今度は、蛇男ことアマに誘われて舌にピアスをつけるスプリットタンをしようと決めた。アマにシバさんにという男を紹介されるが、彼は刺青師だった。私は、刺青もして見たくなった。アマは私たちに絡もうとしたヤクザ風の男たちをやっつけほとんど殺してしまった。私はアマと関係し、アマの女のようになった私は、警察を恐れアマの髪型など変えてやる。シバさんのデザインで龍と麒麟を掘るが、なぜか私はそれに目をいれさせなかった。私はシバさんともアマの目を盗んで関係した。あるとき不意にアマが消えた。やがてアマが埠頭で惨殺死体となって引き上げられた・・・・・。」
文章はなかなか書きなれていると思う。表現のところどころに作者の、あるいはこの年代共通かもしれない思いが的確に語られている。その1,2をあげてみよう。
「欲の多い私はすぐに物を所有したがる。でも所有というのは悲しい。手に入れるということは、自分のものであると言う事が当たり前になること。手に入れる前の興奮や欲求はもうそこにはない。欲しくて欲しくて仕方なかった服やバッグも、買ってしまえば自分の物ですぐにコレクションの一つになり下がり、二、三度使って終わり、なんて事も珍しくない。結婚なんてのも、一人の人間を所有するということになるのだろうか。・・・。」
そしてたとえばアマとの生活を始めた時の表現などに人間の寂しさをよく表している。
「・・・なのに私には活力がない。朝起きて、アマを見送り、二度寝をする。時にバイトをしてみたり、シバさんとセックスをしたり、友達を遊びに行って見たりするけれど、自分の行動一つ一つにため息がつきまとう・・・。」
これに比べると「蹴りたい背中」は素直に読み進む事ができた。アラ筋は
「高校生で陸上部の私は、グループにはいることが苦手でいつも寂しさを感じている。そんな時私は、同様にオタク人間のにな川に興味を持った。彼はオリチャンという若いアイドル夢中、私が駅前の無印良品で彼女を見かけたというと、突然家に招待された。しかし彼の関心はオリチャンにあったときの話ばかり、二人で無印良品にでかけ写真を撮ったりした。オリチャンのコンサートに招待され、絹代と出かけるが、遅くなって彼の部屋で3人で夜とあかすことになった。私は密かに期待するが・・・・・。」
「蹴りたい背中」というのは実によい題である。自分は関心があるのに振り向いてくれずオリチャンに入れ込んでいる、そんな男の背中を蹴りたい・・・・よく分かる。文章は冒頭の「葉緑体?オオカナダモ?ハッ。っていうこのスタンス。あなたたちは微生物をみてはしゃいでいるみたいですけど(苦笑)、私はちょっと遠慮しておく、だってもう高校生だし。・・・。」などのように、多少気取っているところもあるが、全体バランスが取れているように思う。ただプロット等には大したものがなく、読み終えてこれだけ?という感じがしないでもなかった。
最後に総評。時代は、ぼくたちの時代じゃなくなったなあ。僕たちはもう彼らのような繊細な感性などとっくになくしてしまったなあ。でも選者たちの同じだったのじゃないかな。自分にないものをみつけた、あるいは突きつけられた驚きでこれらの作品を選んでしまった、という感じじゃないのだろうか。
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