267「小学生の殺人事件」(6月3日(木曜日、晴れ))

佐世保の小学校で、6年生の女の子(12)が同級生の女児(11)にカッターナイフで切られ、出血多量で死ぬという事件が起こった。
二人は仲のよいほうだったらしい。二人ともホームページを持っている。被害者の女の子がそのチャット欄や交換日記に加害者の女の子の容姿に関する悪口を書いたらしい。やめるように頼んだがやめなかった。数日前から殺害を考えた。給食時間前に学習ルームに呼び出し、殺害した、というのである。
大変センセーショナルな事件であるが、自分なりに感じたことを書いてみたい。

第一はこの事件は別に意外とは思えない、というところだ。子供というのは善悪の判断というよりも自分の起こした行為の結果が何を引き起こすか、という点を理解できない。恐れがない。子どもが本来優しい可愛い心を持っている、というのは間違いである。子どもはすぐ憎む、怒る、根に持つ・・・・。ただそれが殺人にまでいたるケースが少ないのは手段が分からないからである。この女の子のように周到に物事を考え、計画する能力と根気がないからである。実をいうと私だって子どものとき人を殺したい、と思った事がないわけではない。ただ相手が大人であったためにどうやったらいいか、分からなかった、1週間かそこら反芻するうちに忘れてしまった・・・・。

第二はチャットやメールの持つ危険性である。ホームページを開き、毎日書いた日記の抜粋を阿笠通信の名前で流しているが、自分の意見は書きながら個人のことは名前を伏せたり、時には噂話のように書いたりずい分苦労する。それでも親しい人からは「私のことは書かなかったでしょうね。」「あんなことを書いたら許さないわよ。」などしばしば釘を刺される。(実を言うと気にしない人もいる。しかし気にする人は過度に気にする。そういう人はどうも自分のことが漏れるのは極端に嫌うくせに、人の情報は欲しがる。「それで、その人は結局どうなったの。私にだけ教えて・・・。」)
阿笠通信はそれなりの気を使っているつもりだが、自由に短い文章で考えもなく書き込めるチャットなどになるとこの比ではない。よく株式の銘柄単位でもうけられているその株に関する書き込み欄をみるがひどいものだ。誹謗、中傷、内容不明、ボヤキ節、ほとんどが意味のないものである。
そしてしみじみ感じさせられるのは言ったことと書いた事はちがう、という当たり前の事実。書いたことは取り返しがつかず、あとまで残る。自分のことなどを書かれた読者は何度も読んでああでもない、こうでもないと反芻する。そして読み手は書き手の気持ちとはかけ離れた気持ちで解釈してしまう。よくあることだ。

第三はこのような事件がおきると必ずといっていいほど命の大切さを教えなければいけない、とか、家庭教育があるいは学校教育が問題だ、とかいろいろ知った風な意見をいう人がいる。しかし命の大切さをどうやって教えたらいいのだろう。新聞を見れば中東のテロや戦争では連日のように死者を出しているし、殺人事件はうつるし、現在は死が当たり前のごとく報じられている状況なのである。学校に行けば昆虫採集をしてこい、というし、魚屋にいけば生きている魚をその場で3枚にしてくれる、一方で学校ウサギと鶏は可愛い、命は尊い、などといったところでどうなるのだろう、という感じさえする。
大事なのは命の大切さを教えること以前にそれをどう教えるのか、というところなのかもしれない、と思ったりする。

最後にではどうしたらよいのか、と問われると本当のところわからない。それでも言った事と書いたことの違いの教育、なぜ人は人を傷つけるべきではないのか、せめてそういった教育くらいは必要、と思っている。

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