モンテネッリの「ローマの歴史」を読む。
古代ローマ史については、誰でも学校時代に少しは習うのだが、われわれ日本人にとっては案外なじみの少ない世界である。世界史を改めて眺めると、古代ローマ史はその根幹に来ている様におもう。中世ヨーロッパを精神面で支配した神聖ローマやヒトラーの目指した第三帝国は、古代ローマの復活ないし継承を目標としていた。
私も一度ギボンの「ローマ帝国衰亡史」を読もうと考えた事がある。しかし岩波文庫で10冊におよぶヴォリューム、知らない皇帝の登場などに嫌気が指し、簡単にあきらめてしまった。最近塩野七生がシリーズ物で書いているがこちらも長そうだ。
今回見つけたこの本は500ページあまり1巻で終っている。その上1909年生まれ、ソルボンヌ大学法学部卒業のジャーナリストである著者は、専攻と関係ない職業はすべてやったと自称する御仁で経験深そう。その彼が古代ローマの人間的真実、つまり過誤や愚行を簡潔で親切な文章によって描き出すことによって、広範な層の読者に読みやすいローマ史を提供しようとしたものだ。こちらはついつい引っ張られて読み通してしまった。
通史であるから内容を解説することはやめにするが、私が常々思っていた疑問が通読によって一つ明らかになった。
「ネロ帝のころ、キリスト教迫害をあれほどやったのに、コンスタンテイヌス帝になってなぜ、あっさりキリスト教を認め、あまつさえ国家の宗教とまでしてしまったのか。」
47章キリスト教の勝利によれば、ローマは、古来宗教は平等との考えだったが、ネロはローマ大火について自分に向けられた疑惑をそらすために迫害をやった。しかしそれはキリスト教に対するまともな反発に基づいた迫害ではなかった。
紛糾は、皇帝を神とみなし崇拝せよと強制したときから起こった。ユダヤ人とキリスト教徒は唯一の神をあがめていてそれを他の神とかえることはなかった。ケルスス等は「皇帝崇拝の拒否は国家に対する服従の拒否に通ずる」と非難した。これがキリスト教徒に対する反感をうみ、キリスト教徒増大に伴って激しくなっていった。デイオクレテイアヌス帝の時代には教会の破壊やキリスト教徒の財産を没収させるなどさせた。
312年ころ、正帝の地位をめぐって紛争盛んだったが、コンスタンテイヌス帝は夢に十字架の印を認め、以後軍団旗の変わりに「十字架」を押し立てて戦い、「太陽神」をかかげる敵に勝利した。彼が勝つと、キリストの名のもとに帝国は一新し、313年にはすべての宗教の平等をうたったミラノ勅令が公布された。
この頃腐敗したローマ帝国の中で、キリスト教は唯一道徳性に優れていた。良い著述家、優れた弁護士、有能な官吏はキリスト教徒以外に見当たらない状況だった。やがてコンスタンテイヌス帝(312-337)は司教の管区裁判権を認め、教会財産を免税にし、信者団体の「法人格」を認めるなどした。また息子に洗礼を受けさせ、聖職者を家庭教師につけた。
最後に313年のミラノ勅令を撤回し、カトリック教の優位性を認めた。カトリックが国教となり、司教の決定が全市民を拘束することとなった。
325年ニケーアにおける第1回世界司教会議の開催。コンスタンテイヌス帝は日和見を決め込んだが、異端者アリウスほかの除名を決定。続いて首都の整備にかかった。厳粛な儀式を持って新都は聖母にささげられ皇帝はこれを新ローマと命名したが、後世の人たちはコンスタンテイノポリスと呼ぶようになった。
ただコンスタンテイヌス帝がどこまでカトリックを信じていたかは疑問らしい。彼は偉大な将軍であり、怜悧な行政家であった。というのが正しいところかも知れぬ。その後361年にたったユリアヌス帝が元に戻そうとするが流れは止めようもなかった。
一人の人間が国の文明の行く末を決めてしまった大事件といえるだろう。473ページの「革命は思想の力によって勝利するのではない。従前より優れた指導階級を作り上げることに成功したとき、革命は勝利するのである。」との文が印象的だった。
これらをまとめながら、日本にキリスト教が伝えられたとき、僧職者を中心に猛反対運動が起こった、との話を思い出した。唯一一神教であり、他の宗教を認めないスタイルが古代ローマ時代と同様反感を呼んだのだろう。
さらに他を認めない西欧流の考え方が、今では民主主義や資本主義の押し売りになっている、と考えるのはうがちすぎだろうか。
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