今日は少し非常識なことを書いてみようと思う。
国際連合の考え方と民主主義は矛盾しているのではないか、ということだ。
民主主義の基本は各人の平等であり、一人一人のの自由と人権が保障されることであろう。そしてこれを米国を中心とする西欧社会は、推進しようとしている。
しかし国際連合は国家間の民主主義を唱えている。安全保障理事会などあるにせよ、そこでは基本的には人口100万の小国も12億の中国も共に一つと認識される。
ひょっとしたら国際連合は民主主義の原則により人口比によらねばならないのではないか。すると中国票が4分の1くらいをしめることになり、日本は60分の1、アメリカは20分の1くらいになるべきではないか。真の民主主義から言えば、3億の民が、14億の民と同じ権利だ、等というのはおかしい!
そこで人口比でうまく転がって行く世界を、想像することにした。
考える手がかりに、いつか本欄で紹介した「大江戸生活事情」を参考にすることにした。日本は、江戸時代に本当に長い間平和が保たれていた。これを現在の世界に当てはめて、世界を制御すれば、平和を達成するための方策が思い浮かぶのではないか。
江戸時代の人にとっては、世界は日本そのものだった。鎖国をしていたために外部からのインプットがなく、完全な閉鎖社会を形成しており、海の外は関係なかった。世界は日本に対応した。幕府は国際連合に対応し、実際の些事は藩単位で命令されたろうから、藩は国家に対応して考えることが出来る。
このミニ世界が、平和にやってゆけたのは、幕府の力が藩に比べて幕府の力が途方もなく強大だったからである。石高は確か全国で6000万石と言われたが、最大の加賀藩でも100万石、60分の1しかない。脱退も反抗も出来ず従うのみである。
国際連合も国家の主権を超えて、江戸時代の幕府なみに強大になるとしたらいい。アメリカが世界警察の役割をなす、というささやきが聞かれるが、事実をコメントしたのみで、それで良いと思っている他国はない。しかし国際連合なら世界警察でも良いのかもしれない。
その次に国家の大きさである。大きすぎる国家はどのような行動をとるか。京都議定書をめぐるアメリカの動きを見ればわかる。自分の力を頼んで、都合の悪い時には逃げようとする。
国家の力を国際連合が充分強い能力を発揮できる範囲と考えれば、江戸時代並みに国家の最大の大きさを世界全体の60分の1以下におさえればいい。人口比で考えると、中国は10以上の国に、アメリカは3つ以上の国に細分化すればいい。
小さすぎる国家はどうするべきだろうか。当然意見は人口比でしか与えられないから、地域代表にでも自分の意見をたくす以外にない。そのミニ国家が国際連合にたてつく行為をすれば軍事介入もありえようし、おとりつぶしも起こりうる。大国もミニ国家も国家としての主権は大いに侵害されるわけだがやむをえない。
もちろん武器の管理は国際連合管理下におく。国家として武器を持つことは許されない。軍隊も警察も同様で国家として持つことは許すべきではない。ただ、治安確保と言う観点から警察は国際連合のもとに、国家警察があってもよいのかもしれない。
この辺でやめにしておく。余りにも非現実的だ。
第一こんな考えに、まず大国がうんというはずがない。国家と言うものは所詮国民の欲望を世界に対して暴力的に満たすための機構と思う。大国の国民は、大国であるが故の大きな利点を持っていることを知っている。だから民主的などと言う考えは排して、国内の小さな独立運動にも目くじらをたてる。一方こんな国際連合には、小国も、国単位で一票という権利を奪われ、自分の意見が通らなくなって反対するかもしれない。
しかしこんな事を考えて、以下のように感じた。
日本は地球全体の60分の1の意見が主張できるのであるし、逆に言えばそこまでしか発言権がない。そう考えると、米国やソ連がその気にならない現在、日本だけが国際社会だの世界市民だの考えてもナンセンスであることに気がつく。まだ、日本はまず国益を重視し、世界平和への協力と言う意味で行動をとる事が大切だ。
それから国益優先を打ち出すアメリカ流のやり方が正しいとは限らないことに気づく。そして同時にそうだけれどもそれを止められない現状に歯がみする。
(1110R 0122R)
註 ご意見をお待ちしてます。
e-mail agatha@bekkoame.ne.jp
home-page http://www.bekkoame.ne.jp/~agatha