キケロの「老年について」を読む。この書は農民出身の政治家で、文人、弁論家、保守主義者大カトーが長男の義兄弟小スキピオおよびその親友ラエリウスに語り合う形式を取っている。前150年で、場所は大カトー邸、彼は84歳である。
「友情について」と同様、この書も原題は「大カトー」で「老年について」は副題であったと思われる。
まず主題が定められた後、老年が惨めだと思われる理由が4つ挙げられている。第一は老年は公の活動から遠ざかるから、第二に老年は肉体を弱くするから、第三に老年はほとんどすべての快楽を奪い取るから、第四は死から遠く離れていないからである。そしてこれらの理由についてどの程度、またどのような意味で正当化を考察している。
1については、「若者のするようなことはしていない。・・・肉体の力とか速さ、機敏さではなく、思慮・権威・見識で大事業は成し遂げられる。」と見栄を切り「わしは、何をどのような仕方で行うべきかを指図しているぞ。悪事をたくらんでいるカルタゴに対しては、ずっと以前から主戦論を唱えているぞ。」とする。第二次ポエニ戦役で完全に押さえ込まれたカルタゴはローマに従っていたかに見えたが、傭兵のヌミデイア侵攻を発端にローマと戦うことを余儀なくされ、前146年に完全に滅ぼされた。
2については「老年に体力は要求されない・・・弱い老人も多いが、しかしそれは何も老人特有の欠点ではなく、病弱に共通の者だ。」とはねつける一方、「健康に配慮すべきである。」とする。そして「われとわが身を守り、己の権利を保ち、誰にも隷属せず、息を引き取る瞬間まで一族を統べ治めてこそ、老年は尊敬に値する。」元気なことだが、まさに老害の典型?
いや、逆に現代の老人に権威がないということか。
3について「青年時代の悪徳の最たるものであった、まさにそのものを取り去ってくれるとは何と素晴らしい賜物ではないか。」「祖国への裏切り、国家の転覆、敵との密談、みなここ(快楽)から生まれる。」と威勢がいい。しかし解説によれば「80歳で次男を設けたのは、蓮如上人の83歳に比肩する。」というから、ただただ恐れ入る。また「饗宴の喜びを計るに際しては、肉体的な喜びより友との交わりや会話を基準とした」というところは、私もそろそろそんな気になってくる年齢?
4についても「長い人生の間に死を軽んじるべきことを悟らなかったとすれば、ああ、何と哀れな老人よ。」と嘆じ「もし魂をすっかり消滅させるものならば無視してもよいし、魂が永遠にあり続けるところへ導いてくれるものならば、待ち望みさえすべきだ。」と見栄をきっている。しかし魂の不滅は信じつつも、自分の行く末には不安を覚えるらしく「わしの言うとおりだと思うなら、わしを神の如くに敬うのだぞ。しかしもし、魂と肉体が同時に滅び行くものだとしても、お前たちはこの麗しい全世界を守り治める神々を崇めつつ、わしの思い出を恭しく厳かに守り続けて欲しいのだ。」
最近になって思うのだが、人は自分がその立場に置かれないと、そのことは真剣に考えられない、ということだ。この書はそれまでにでた書のように老年を悲観的に捕らえていないところが特色とのことである。しかしよく読んで、裏を考えてみると、老いのあせり、悲しみ、あきらめ、それらを隠しながら張っている意地といったものが透けて見える感じもする。それは引退して鬱々としている63歳のキケロ自身の投影と見ることもできる。
キケロ(BC106-43)の「友情について」を読む。この書は、シーザーが暗殺された前44年頃「老年について」の姉妹編として書かれている。優秀で、弁論の才能にたけ、若くから元老院でも大きな力を持っていたが、ローマにシーザーが攻め入ったときに、中立の態度を取り、引退同様になっていた。そのシーザーがブルータスに暗殺され、第二回三頭政治の世になったときアントニウスに憎まれ、この書を著した翌年、64歳で殺害された。
この対話編は前129年、カルタゴを滅ぼした小スキピオの死後まもなく、60歳前後の残された親友ラエリウスが二人の娘婿を前にして、友情について語るという形式をとっている。実は原題はラエリウスになっている副題に「友情について」とあり、今日ではむしろそれが通り名になっている。
ここで著者が取り上げる友情なるものは、ごく世間並みの友情を言うのではない。「史上稀有なる人々の結んだような、真の友情、完全な友情」で、そのような友情は「順境を一層輝かせ、逆境を分かち担いあうことで軽減してくれる」ものである
(6章)。一方で「遊び仲間として好きだった人を親友にしなければならぬいわれはない。」(20章)もちろん、当時の社会環境を考えればわかるように、異性との友情関係は考えられていないようだ。
そして人間生活において友人が不可欠であることを、23章で「神様がわれわれを人間の寄り合う場所から連れ去り、どこか独りぼっちでおく。・・・・・(ロビンソンクルーソー的生活である)・・・・こんな生活に耐えられるほど、・・・・鉄のような心を持ったものがいるだろうか。」ともしている。
間違ったことをする友人に、手を貸さなければならないか、という命題が挙げられる。これに著者は「恥ずべきことは頼むべからず、よし頼まるとも行うべからず。」としている。(11章―12章)
見せ掛けの友情について激しく非難している。「一体自分が恐れている人を、あるいは自分を恐れているかも知れない人を愛する者があろうか。」とし、ある暴君がついにその地位を追われて亡命の身になったとき「どの友が忠実でどの友が不実であったか、もはやどちらにもお返しできないときになって分かった。」と語った例を引いている。(15章)
24-25章では「友情には阿諛、おべっか、追従以上の害毒はない。」と断じ、反語的に「世辞は友を、真実は憎しみを生む。」というある劇からの引用もあげている。
そんなわけだから、友人を慎重に選択することを要求し「友情を構えるに際しては、いつか憎むことになりそうな人は決して愛し始めぬよう、そう心してかかるべきだ。(16章)」一方で、相手からも認められる事が必要で、そのために自分自身の徳を磨かねばならない。5章で「第一感として、秀れた人々の中にしか友情はありえない。」とする。
いったん得た友は親愛の情をできるだけ続けるために、次のように述べるが、この辺が著者自身も自己の生き様を振り返って苦しんでいるようにも見える。
「友人の生き方が非のうちどころなき場合には、すべてにおいて例外でなく考え方の一致、やりたいことの一致があってよい。しかし、もし何かの拍子に、友人のやりたい事が正しくないのに、生存権や名声がかかっているため、それを手助けしなければならなくなった場合には、余りにも恥ずべきことにならぬ限りにおいて、道からはずれてもよい」(17章)
しかし実際は苦しい選択を迫られるケースもあるようで
「名誉公職や国政に携わる人々の間に真の友情を見つけるのは至難のわざだ。」(17章)と本音を述べている。
以上述べられているように、内容は現代のわれわれの生活にも通じる妥当なものである。この書を読みながら考えたこと・・・・私自身は友人について次のように感じている。「学校時代の友人など利害関係のない友とは友情が芽生えやすい。」同じ釜の飯というのはそれだけで似たもの同志というレッテルが貼られ親しみやすい。一方で「会社関係などいささかでも利害関係のある友とはそういったものが生まれにくい。」「全く違う世界の人とは親しくなりにくい」などとも感じる。しかしそういった中で友情をはぐくむにはどうすべきか・・・・なかなか難しい。
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