328「読書について」(1月22日(晴れ)土曜日)

日経新聞の夕刊に「あすへの話題」として著名人がエッセイを書いている。今日は茶道裏千家家元の千宗室氏で、ご自分の読書スタイルについてで、面白いと思った。

中段に「積ん読の趣味は持ち合わせていない。買った以上必ず読む。本屋で手に取りパラパラやってから買う」
私もそうだ。本屋で興味がある本を見つけると同じ様にするが、私の場合はまず値段を見て懐との相談。次ぎにその本を買って読むと仮定して、読書に要する時間を考える。本を買うことは、自分自身がもっている時間という投資を将来行うことを意味する。その投資に値しない本など縁がない。決心がついてから帳場に持ってゆく。
「ところが家に帰って読みだすと、どうもうまく進めないものがある。」
実は私も全く同じなのだ。その結果エッセイの最後にあるように
「年末に買い求められた五冊のハードカバー本が「アタシタチの運命や如何に」と言った気配でこちらを窺がっている」

本屋で見たときに面白そうで実は読まれにくいもの・・・・
まず難しい本。哲学の本などしばしばそうだ。
このまえプラトンの「国家」を読んだ。論理的に正確なのだろうが実に難しい。難しい本は、不思議な効力があるもので喫茶店でおもむろにとりだし読むぞ、と気合をいれてみても3分も経たぬうちに意識がぼんやりし、何がなにやら分からなくなり、ポトンと本が床に落ちた音で我に返る。「ああ、買ったばかりの本を汚して・・・・。」と苦笑しながらきれいにして、今度は寝ないようにコーヒーなど一飲みして件のページを拡げる。ところがまた3分以内にポトン・・・・・。
そこで1ページしか読めなくとも、理解できないところがあってもいいではないか。とにかく読みきる事が大切、と腹をくくった。読みきればプラトンを読んだことになるし、何が書いてあるかくらいは分かるから自慢できるじゃないか、と楽天的に考えることにした。しかし「国家」は下巻になると急に面白くなり、結局10日くらいで読みきってしまった。もっともこんなやり方だと途中で興味が薄れて頓挫してしまうものもある。そういう本は何年か書棚を暖めた後縁のないものとくずかご行きなったりする。
読み出してこれはダメだ、と思う本もある。大抵は文章や話の進め方が読み続ける気を起こさせないのである。逆にこういうのを読んでいると,自分も書くときには人に如何に読ませるかを考えなければならぬ、と思う。
全体読む気なのか、一部読む気なのか区別のつけぬままに買ってしまうケースも「積ん読」になるケースが多い。たとえば「日本の庭」という本は、図版と場所をみてつい買ってしまったが、文章がおざなりで、興味のあるところを30分もみると書棚行きになった。エッセイ集なども、こんな目にあうケースが多い。

最後に千宗室氏は「いっぺんきりで後は本棚の片隅に詰め込まれているような手合いのものとなると・・・・(期間がたって)・・・それらの本を抜き出し手に取りしげしげ眺めてみても、まるで初めて出会ったひとのようにそっけない。」と書いている。
私も一度読んだくらいで大抵の本は1年も経てばすっかり忘れている。どんなトリックやら、何が原因やら、誰が犯人やら・・・。しかし私は一つだけ自慢できる。読んだら必ず内容・書評をまとめてホームページに載せるようにしている。読書内容の記憶というのは反芻によって格段に強化される。ただ最初からその方針で書いたから「推理小説のネタ晴らしをするとはなにごと!」などと非難された。仕方なく以後そこはぼやかすようにしている。期間がたって作品の内容・書評を読み返してみると、かなり鮮やかに記憶がよみがえってくるのである。さらにそのときもう一度本を読み返し、コメント、内容を訂正してゆくとさらに理解は強化される。

先述の「国家」は少なくとも前半は半分眠りながら読んだから、まとめもいい加減である。しかし書いたからアップロードしようと思う。何年か経って読み返したときに加筆訂正するかもしれない。それはそれでいいではないか。

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