海外旅行のごく一般的な経験コースを考えると最初はロンドン、パリにアメリカ、それが終るとスペイン、イタリアあたりではないかと思う。しかしそれも行きつくすと、西欧文明が、実はいつもトルコとの戦いの中に成長していった事に気づく。
パック旅行で、コースは一般的なものである。
イスタンブールをでて、バスでトロイの遺跡のチャナッカレ、ペルガモン遺跡を見て内陸部に入り、鍾乳洞をひっくりかえしたような温泉のパムッカレ、そして火山性擬石岩がおりなす不思議な岩が林立するカッパドキア、首都アンカラ、最後はそこから夜行列車で再びイスタンブールに戻る10日間である。
今回は行く前に塩野七生「コンスタンチノープルの陥落」を読み返しておいた。その意味で私はカッパドキアも感激したけれど、イスタンブールがよかった。
ビザンテイン帝国は6世紀にはトルコ、エジプト、北アフリカ全域、イタリア、さらにはスペイン南部まで支配下においていた。しかし事件の起こった15世紀中葉にはボスポラス海峡の出口の現在旧市街と呼ばれている猫額大の土地に押し込められていた。
1453年、若いメフメット2世率いるオスマントルコ軍は総攻撃を開始した。事前に海上封鎖を行う目的で築いたボスポラス海峡のルメリ・ヒサール要塞、アナドル・ヒサール要塞、ビザンチン側が入口に鎖を渡してトルコ軍の侵入をはばんだ金角湾、トルコ側が総攻撃をかけた東のテオドシウス城壁、その城壁を破られ、追い詰められたビザンテイン市民が最後に逃げ込んだアヤソフィア寺院、さらに一部が逃げ込んだ金角湾北側のガラタ地区、そういったものに非常に興味をひかれた。
現地ガイドにトルコ人の若い女性がついた。彼女の関心は、オスマントルコ崩壊後のトルコの独立に向けられているようだった。トルコ国民としての意識が強いのだろう。
トルコは第一次世界大戦時枢軸国側についた。1915年押し寄せた英仏連合軍にガリポリ半島で対峙したトルコ軍はケマルアタチュルクの指揮の元これを退けた。しか戦争全体としてはオスマントルコの敗戦で終り、メフメト4世率いるオスマン政府は1920年にセーヴル条約を受け入れ、国土分割を余儀なくされた。しかし1920年ギリシャはさらに領土を拡張しようとして小アジアに侵攻した。トルコ軍はこれを撃退し、セーヴル条約で取られていたイズミールを奪回した。アルメニアの平定、ソ連との平和条約、さらにフランスとの休戦条約とケマルによって国内が安定したのを見て、連合国はあらたな条約を結ぶこととした。ローザンヌ条約が調印され、トルコは現在の国土を確保した。
ケマルは1923年に共和国初代大統領に就任、アタチュルク(トルコの父)と呼ばれるようになった。その活躍はめざましく首都をアンカラに移し、スルタン制やイスラム裁判、一夫多妻制を廃止するなど、近代トルコ建国の礎を築いた。
ガリポリ半島をチャナッカレ海峡を渡るときに遠くに眺める事ができた。また高層ビル立ち並ぶアンカラはいかにも近代都市という感じがした。アタチュルク独立戦争記念館では、押し寄せる英仏軍の残忍性と共にケマルの戦場での活躍がこれでもか、これでもかと喧伝されていた。街を見渡す軍人達の像と共に独立と平和は力で勝ち取るものと示しているように見えた。国家に対する日本との感じ方の違いを意識せずにはいられない。
それでもトルコの国旗は赤地に月と星、「善と幸福」を著している。パキスタンも月と星でだが、こちらはイスラム教のシンボルを著す。
どこかの機関が「イスラム教国で一番旅行して快適な国はどこか。」というような調査をしたところ、トルコと出たそうだ。親日的であること、親切であること、治安が安定していること、料理が口に合うこと、政教分離が徹底し、宗教色が弱いこと等々。おかげで私もそれは結構な10日間を楽しんだ。皆さんもどうぞ。
なお昭和50年代に江利チエミの歌で「ウスキュダラ」という歌がはやった。あれはイスタンブールのアジア側にあるなんと言うことのない海岸である。
ウスキュダラはるばる訪ねてみたら 街を歩いて驚いた これでは男がかわいそう・・・・
いろいろ書いたけれど、最後に本当のところを・・・・。今度の旅行で一番ショックだったのはグループで最年長、79歳のAさんの一言だった。「申し込みに行ったら、75歳以上は付き添いがいります。」奥さんが75歳未満で助かったそうだが、独身の私は期待できず、あと11年・・・・。
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