420「リーチ一発、ボケ防止!」(1月3日(火)曇り)

親しい友人宅を訪問。食事が終って久々にマージャン。友人夫婦と私、それに息子さんである。偶然に勝たせてもらってしまった。
麻雀を非難する人は「金をかけるのがいかん。」「長い時間座っているばかりで少しも生産性がない」「健康に悪い」等々いろいろ非難する。しかしゲームとしてみた場合、これほどうまく考えられたものはない。それに中国伝統の遊戯を、かなりの部分日本人が発展させた・・・まさに日中友好の架け橋?

私は、麻雀は今違った形で発展させるべきもののように思う。サラリーマンの賭け麻雀から脱して、たとえばリタイヤ老人のボケ防止対策として、老人ホームなんかにも導入したらいいと思う。暇なおばさんの暇つぶし対策として復活させたらいいと思う。要求される知能の程度もぴったりだ?
というわけで、久しぶりにマージャンをやって、時々こうやって遊ぶ仲間が集まらんものか、と思案した私であります。

マージャンの起原、歴史などについても多くのウエブサイトや書物で語られている。少しづつ違うが、この機会にアウトラインをまとめてみる。

「中国唐の760年頃、葉子戯(エーシーシー)という遊びが宮中で流行した。楊貴妃の頃だが、彼女がこれをしたかどうかは知らない。葉子戯は基本的には文字あわせで、枚数は40枚、絵の種類は文銭、索子、萬貫と空文、枝花の5種。これがマージャンの元祖で文銭はピンズ、索子はソーズ、萬貫はマンズにあたる。
下ること900年、明朝の1621年、葉子戯が発展した形で馬吊(マーチャオ)が完成。ここで文銭は一文から九文まで、索子は一索から九索、萬貫が一萬貫から九萬貫まで、枚数も108枚になりマージャンの原型が出来上がった。宮中のみやびな遊びとして広がり、1800年代に入って女官のオシロイ、口紅、眉毛を現すという三元牌が加わった。さらに19世紀中葉太平天国の乱のころ、陳魚門という人が風牌を加えてほぼ現在のマージャンの形を完成させた。1899年の義和団の乱の頃、宮廷が混乱し、マージャンも世間一般に広まった。

次に日本の麻雀。
1900年代に入ると、修学、商売など様々な目的で出かけた日本人が紙牌や竹牌の中国マージャンを持ちかえることとなった。1920年代には米国から骨牌のマージャンが渡来した。こちらは4cm*3cm*2cmの大きなもので、作家やモダン俳優などの間で広く行われるようになった。1929年に菊池寛が初代総裁となり、日本麻雀連盟が発足、ますますさかんになったが、その頃から「中国の遊戯であるから中国語で」ということで、ゲーム用語はすべて中国語になり、牌の大きさも現行の標準牌が主流となった。
日華事変、太平洋戦争と暗い時代の中で、麻雀熱は下火になり、日本麻雀連盟も解散に追い込まれた。しかし戦後いち早く庶民の唯一の娯楽として復活し、麻雀荘が立ち並ぶようになった。その中でいつしか、途中リーチ、現在のリーチが考案された。これで捨牌という制度が生まれ、ゲームに推理という魅力が加わり、ファンの熱狂的支持をうけた。

この流れの中で我々も学生時代、サラリーマンヒラッペ時代、夢中になったのだ。
しかし1980年ころから、あれだけ盛り上がったマージャン・ブームにかげりが出始める。レジャーの多様化で、サラリーマンの娯楽はゴルフ等に変わっていった・・・」
これ以上知りたい人はウエブで調べてください。

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