著者アミン・マアルーフは1949年レバノン生まれのジャーナリスト。76年、祖国の内乱を機会にパリに移住、本書を著作した。
従来の見方による、あるいは西欧から見た十字軍遠征は8回おこなわれた。
第1回十字軍(1096-1099)。セルジューク朝トルコの圧迫に苦しんだ東ローマ帝国皇帝の依頼で、95年に教皇ウルバヌス2世がキリスト教徒にイスラム教徒に対する軍事行動を呼びかけ、参加者には免罪が与えられると宣言した。この呼びかけに答えた騎士たちがエルサレムを目指し、分裂状態にあったイスラム諸国を撃破、エルサレムを占領しエルサレム王国、その他の諸侯国を建国した。
第2回十字軍(1147-1148)。しばらく十字軍国家と、群小都市国家からなるイスラム教徒が共存する状態が続くが、イスラム側がエデッサ伯公国を占領したことから再びフランス、神聖ローマ帝国を中心に十字軍を結成。しかし内部分裂もあり、大きな戦果をあげることなくエジプトアイユーブ朝を起こしたサラデイン等に大敗。
第3回十字軍(1189-1192)。サラデインがエルサレムを占領したため、教皇グレゴリウス8世の呼びかけで、イギリス、フランス、神聖ローマ帝国で結成。アッコンを確保し、エルサレムの巡礼は認められるようになったものの遠征としては失敗。
第4回十字軍(1202-1204)。インノケンテイウス3世の呼びかけで行われるものの、ヴェネツイアの働きかけで東ローマ帝国の首都コンスタンチノープルを攻略。フランドル伯が皇帝となりラテン王国を建国。東ローマ帝国は一旦断絶し1261年に復活。
この後1270年の第8回十字軍が失敗するまで延々と戦火が続く。第6回十字軍の際、外交交渉によってフリードリヒ2世がエルサレムの統治権を手に入れるが、長続きせず、1244年に攻撃されて陥落、キリスト教徒2000人余りが殺されるという悲劇を味わう。
しかしこれらの戦いをアラブ人はどう見ていたのだろうか。そこがこの書の目的である。参考にするのは当時の現場にいた人々の諸作品。ダマスカスの行政官であったイブン・アル・カラーニシ(1073-1160)、ムスリム・スペインの旅行家イブン・ジュバイル(1145-1217)、アレッポのマールッデイーン・イブン・アル・アデイム(1192-1262)、サラデインに仕えたバハーウッデイーン・イブン・シャッタード(1145-1234)などによっている。十字軍はキリスト教側からは、イスラムから自分の聖地を取り戻そうと少なくとも最初は快進撃をするわけだが、イスラム教徒側は単純に「フランク人がせめて来た、撃退しよう。」と考えたようだ。フランク人は昔フランス南部でイスラム教軍が戦ったフランク王国のことだが、この頃にはヨーロッパ全体を指すようになっていた。
作品は1099年のエルサレム陥落に始まり、エジプトでヌールッデイーンの後を受けてアイユーブ朝をおこしたサラデインの勝利、その失敗、ヴェネツイア後押しによるコンスタンチノープルの占領、ラテン王国、モンゴルの進出と撃退、奴隷王朝バイパルス等による西欧の完全追放までを年代記風に描いている。フランクのほかルームと呼んでいるビザンツ帝国、モンゴル軍、アラブ内部での諸族がときに連携し、ときに戦う構図で戦国時代のようにさえ見える。
失敗に終ったものの、その後も西欧は、ローマ教会を中心に十字軍を崇高なものとみなしており、1308年ロードス十字軍、1344年キプロス十字軍、1365年サヴォイ伯十字軍、1440年ヴァルナ十字軍、東ローマ帝国滅亡後もピウス2世による十字軍の提唱などがあった。
しかし十字軍は、イスラムから見れば略奪者そのもの。十字軍のシンボルと同じ赤十字は、現在でもイスラム諸国で忌避され、赤新月などの別の言葉やシンボルで対応している。
2003年のイラク戦争において、ブッシュ大統領は、自軍を十字軍と表現したが、イスラム圏からの反発によってすぐ撤回した。また一部のアラブ民族主義者などは今日でもイスラエルへの支援やイラク問題への介入などあらゆる西欧からの関与に反対している。
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