429「神道って何だろう?」(1月26日(木))

「神道入門」という本をを読む。この書を読もうと考えたのは、私にはどうも神道というものがわからないからである。神道とはどういう教義なのか、神道に死後の世界はあるのか、そもそも宗教と呼ぶべきものなのか。
特にこれを感じたのは、昔イギリスで2年近く過ごしたとき、イギリス人から「神道」とは何か、と聞かれ、日本人なのに説明のしようがなくて困った。
著者は1948年鹿児島生まれ。東京大学卒。現在國學院大學教授。著書多数。

「見える神道」というのは、社会制度の中で一定の地位をしめたり、明確な組織形態を維持してゆくタイプの神道で、国家、学派、集団といったものに関係付けられる。
ところが神道という概念は、輪郭が余り定かでない。日本文化との境界があいまいで、伝統的な生活習俗とよぶべきものが、多数、神道と渾然一体になって続いている。また他の宗教、特に仏教の影響を受け、しばしば神道を独立した宗教と見ることさえ困難にしている。それらを「見えない神道」と呼び、主として家や地域社会に関係付けられる。

「見える神道」の中心である神社神道は、国家や天皇家と深い係わり合いをもって成立した。大和朝廷が全国を統一した後、律令制度の中に神祇制度が組み込まれた。神祇官が神々への信仰をつかさどった。798年に神社は、神祇官が管理する官幣社と国司が管理する国弊社が分けられた。平安時代中期には天皇家、貴族が支える22社制度、地方では総社一宮制度が定着していった。
しかし武士の時代になると制度は次第に弱体化し、国家的祭祀、地方的祭祀共に行われなくなっていく。そして神社は有力寺院の支配下に置かれるケースが目立つようになった。織豊政権を経て徳川時代になると、幕府は諸社禰宜神主法度を定め、多くの神社は吉田神道や神祇伯白川家の支配下に置かれるようになった。寺社奉行の言葉に象徴されるように寺院が上位におかれた。

1868年に明治維新になると、神仏分離が明確にされ、基本方針として大教宣布が示された。「神道非宗教」とするとともに近代神祇制度が確立され、神社の国家管理が進んだ。修験道の中心地の多くが神社になり、神道教団となった。幕末時からの民衆運動に、維新政府の神道を中心とした宗教政策により、神社とは別に教団組織を持つ教派神道が出現した。また海外神社も多く出現した。

しかし太平洋戦後は一変、日本国憲法には「信教の自由」がうたわれ、「神道指令」により、内務省神祇院が廃止され、公の教育機関による神道教育が廃止され、私立大学の國學院大學のみが残った。宗教法人法が改正され、神社も宗教法人と定められた。このような新しい事態に対応するため伊勢神宮を本宗とする神社本庁ができた。

神道には聖書やコーランのような教典の変わりに古事記、日本書紀、古語拾遺などの神典が存在する。神道の神々は八百万の神といわれるほど多くある。「古典の神」は記紀を初め、古典に登場する神である。「習合神」は神仏習合時代に仏教の影響を受けて信仰されるようになった神々である。修験道の神々、権現様、明神様などが含まれる。「民間の諸神」は人々の間で信仰されるようになったさまざまな神でオシラサマ、竈神、七福神、屋敷神、など多彩である。「御霊信仰になる神々」も存在する。菅原道真、西郷隆盛などである。靖国神社もこの部類に入ろうか。
それらへの祭祀は延喜式などで決められていたが、明治になると内務省訓令によって官幣社、府県社ごとに祈念祭、新嘗祭などの大祭、中祭、小祭が定められた。現在では神社本庁の祭祀規定によるが、別に神社ごとに田植祭、七五三詣、成人式など諸祭を行っている。また神社独特の特殊神事を行うところもある。
神道の教えは、神社神道の場合、天皇崇敬と愛国主義が主体である、といえる。ここがまた現在いろいろ物議をかもすところ・・・・。

これらに対し、「見えない神道」は家庭、地域社会、会社、教育現場などで、宗教と社会的習慣の境界をあいまいにしたまま、多様なネットワークを通じて発展してきた。神棚を中心とする祭祀、神前結婚式、祭礼、日柄と方位、丙午信仰などはそのうち宗教色の強いものの代表であろうか。

本書のポイントは以上のように思われるが、神道は日本人の生活習慣とも結びついており、なお説明しにくい。「信教の自由」が対象とするのは「見える宗教」の一部のみとし、「見える宗教」の活動部分でも習慣にねざしたものや、「見えない宗教」部分についてはもはや宗教ではない、と明確にした方がよいようにも思われた。

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