430「豆、鰯、恵方巻」(2月3日(金曜日)晴れ)

エッセイ風日記を書き続けてもう5年近くになる。
主題は身の回りに起こったこと中心だが、繰り返しに陥りがち。節分もこれで5度目。通信の38回目、2002年2月3日に「福は内、鬼は外」というのがあった。

夜、ガールフレンドのAさんが手製の恵方まきを持ってきてくれた。当方はおととい買っためざしとおでんを用意しておいた。鰯は節分に食べるとスーパーのチラシで宣伝していたからだ。
今年の恵方、南南東に向かってガブリとかぶりついた。
なかなか結構なお味・・・・・と書いておかないと後で叱られる。彼女もこのメールを読んでいる。
そういえばこの前アカデミー賞の授賞式でトロフィーを貰った誰かがスピーチをしていた。マイクを渡されて「原稿は用意していないのですが、妻が用意してくれて・・・」とポケットからくしゃくしゃになった紙を取り出した。「ここまで私を支えてくれた親切でこの上なくキレイな妻に感謝し・・・・・今後は仕事に夢中になりすぎて家庭をおろそかにすることなどないようにし・・・・」後はおって知るべしで、妻の言いたいことだけが詰まっていた。あれはいい人生訓。
食後に大福と一緒に豆を歳の数だけ食べた。彼女にも薦めたが、とても食べられぬとかで10年で一粒の計算にしてしまったようだ。豆まきはやらなかった。

それにしても妙なことを一緒にやる、と節分の風習を「日本風俗史事典」、ウエブを調べる。
「平安時代から節分の日には「方違え」といって、陰陽道による星運や自己の干支によって恵方に宿所をかえて 厄をはらう事が行われた。宿所を外に求めていたのを、次第に恵方の部屋に移るだけに簡略化された。するとその部屋の厄除けが必要になったので豆まきがおこなわれるようになった。」
「「福は内、鬼は外」は、昔大晦日に行われていた追儺儀礼の「鬼やらい」の儀式に影響されたもの。」追儺儀礼は中国から伝わったもので、「周礼」や「後漢書」に従えば神に扮した追儺方相氏が、黄金の四つ目の仮面と玄衣朱裳を着け、右手に戈、左手に楯を持ち、官奴から選ばれた童20人を率いて鬼を追ったことから始まったものとか。
「厄年を忌む思想も平安時代から見られる。最初は厄年の人が節分の年の数だけ豆を食べ、厄払いをしたが、次第に厄年の人でなくても、年の数だけ豆を食べるようになった。」

ところで、この辺までは故事にのっとりゆかしい事が分かるが
「豆を焼いた火で柊の枝に鰯の頭を挿して焼き、それを門戸に置く風習も起こった。悪臭を放つニンニク、ネギ、トベラ、髪の毛を添える地方もある。」
どこにも焼いて食ってしまう、とは書いてなかった。
「巻き寿司を食う風習は、福を巻き込むという意味と、縁を切らないという意味が込められ、恵方に向かってまるかぶりするようになった。大阪海苔問屋協同組合が道頓堀で行った「巻寿司のまるかぶり」の行事をマスコミが取り上げ、それを見た全国の食品メーカーが便乗し、全国にひろまった。」
つまりヴァレンタインデーのチョコレートと同じ伝。

ふと思いを未来にはせる。10年くらい経つと節分には恵方まきといっしょにおでんを食べるようになっているかもしれない。・・・・それにはマスコミに連絡しておくべきだったか?風習なんてそんなものだ。

(参考) 2002年2月3日(通信38)

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