460「日本教も行きすぎると・・・・」(5月31日(水)晴れ)

最近、神道や仏教に興味を持ち、新書本などを読み進むうち、そもそも日本人とは何か、というようなことを考え出した。山本七平の「危機の日本人」など読み、その延長で昔読んだ「日本人とユダヤ人」を再読した。
そうした中で、分かったようで、今一歩ピンと来ないのが「日本教」という考え方だ。
「日本人とユダヤ人」では「日本人は日本教徒なのである。ユダヤ教が存するごとく、日本教という宗教も厳として存在しているのである。」と断定し、その中心にあるのは神概念ではなく「人間」という概念なのだ、とする。

従って日本教の「創世記」の現代的表白につぎのように書かれていても不思議ではない、として「草枕」の一説を掲げている。
「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり三軒両隣にちらちらする唯の人である。唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりも猶住みにくかろう。
越すことのならぬ世が住みにくければ、住みにくいところをどれほどか、寛容(くつろげ)て、つかの間の短い命を、束の間でも住み良くせねばならぬ。ここに詩人という天職ができて、ここに画家という使命が降(くだ)る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊(たっと)い。」

そして「法外の法」と「言外の言」が日本教の基本理念である「人間性」を定義しており、一切の異邦人は、この聖域に近寄ることを許されない。キリスト教が日本で普及しないのもこのためだ、日本人と議論した結果「日本人は結論をはっきり言わない」などという感想を述べるなら、言う方に初めから、日本人と語る資格がない、とまで言っている。

「法外の法」に「日暮硯」の恩田木工の例をあげている。
1756年頃、信州真田藩は非常な財政困難に陥っていた。16歳の主君に建て直しを依頼された末席家老39歳の恩田木工は、まず妻や親戚も分かれて、決心のほどを見せる。諸役人には「今後は朝令暮改をせず、言ったことは必ず実行する。給料は今後きちんと払う。」とし、さらに庄屋、長町衆、町方等を集めて「すべて私に相談してくれ。私は祝儀、賄賂などは一切受け取らぬ。年貢督促は人手がかかるからしない。先納、先々納(年貢を翌年以上だす。)ご用金用立ては今後一切ナシにし、今までにしたものは全部チャラにしてほしい。また未納はそれぞれ事情があろうから、今までのものはチャラにする。しかし今後はきちんと払うべし。」などとするとみんなに受け入れられた、という。
この話を聞いてドイツ系ユダヤ人は「木工はいかなる律法に基づき、それをどう解釈してこの改革をおこなったか。」アメリカ人は「なぜこういう不公平が指示されるのか」と疑問をぶつけたという。
「言外の言」には勝海舟が江戸城開城にさいし、すべてをまかせた西郷隆盛の例を揚げている。勝海舟研究には「氷川清話」を推薦している。

なるほどとは思いながら、私は最近これも行きすぎるとまずいことになるんじゃないか、と心配である。
ライブドアに続いて村上ファンドに捜査の手が伸びようとしている。そんな大金の恩恵に良くすることのない国民の多くは、やっかみも手伝って快哉を叫んでいるように見える。しかし余りにも一般国民にそのような意見が強いからといって、「法外の法」やら「言外の言」に頼りすぎていないか。「共謀罪」の成立に、テロ防止の観点から必ずしも反対する者ではない。しかし、ちょっとしたことでも問題があれば、一部の国民の声を背景にひっかけてしまう、ということでは心配である。

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