勝海舟の「氷川清話」を読んでいて面白い話を見つけた。面白い、というのはどういう風に解釈していいか、迷うからである。
昔、本所にきせん院という行者がいて、その頃流行した富くじの祈祷が当たるというので有名であった。しかし越前の守の時代になり、富くじをやかましく取り締まったものだからはやらなくなった。それからだんだん落ちぶれて、後には汚い長屋に住んでいた。おれ(勝海舟)はその親父と親しかったからときどき野菜などを持っていってやった。
この行者は、肉食妻帯はおろか、間男なんかも平気なもんで太いところがあったが、落魄してからは体も気分も弱りこんでいた。
その男が「貴下はまだ若いがなかなか根気があるし末頼もしい、是非これから話す話をよく覚えて置きなさい。」と前置きして以下の話をしてくれた。
彼の祈祷があたらなくなった理由は二つあるという。
ある日、一人の婦人が富籤の祈祷を頼みにやってきた。ところがそれがなかなかの美人であったから、思わず煩悩にかられ、口説き落とし、それから祈祷をしてやった。それから4.5日すると、祈祷に効果がああって当籤をしたと礼にやってきた。そこでまたまた口説きかけると、恐ろしい目でにらみつけ「亭主のある身で不義なことをしたのも、亭主に富籤をとらせた切なる心があったばかりだ。それをまたぞろ不義をしかけるなどとは、不届き千万な坊主め。」と叱られた。それがしみじみ身にこたえた。
今ひとつは、ある日両国で大きなスッポンを買ってきた。他に料理をする者がいないから、かのスッポン目が首をもちあげて、料理をしようとすると、大きな目玉をして私をにらんだ。首を打ち落として料理にして食ったが、しかし何となく気にかかった。
この二つの事が始終私の気にかかっていて、祈祷もだんだん当たらなくなった。二つがたたるというわけではないが、自分の心に咎めるところがあると、鬼神と共に動くところの至誠が乏しくなってくるのです。そこで人間は平成踏むところの筋道が大切です。
海舟は「豁然として悟るところがあり、爾来、今日に至るまでこの心得を失わなかった、全体おれがこの歳をしておりながら、心身ともにまだ壮健であるというのはというのは、畢竟自分の経験に顧みて、いささかなりと人間の筋道を踏み違えた覚えがなく、胸中に始終この強みがあるからだ。」としている。
なかなかに分かりにくい譬えである。ウエブサイトを見ると、私と同じようにこの話が気になった人がいた。
「自分でやっていることが、人から憎まれているとか、蔑まれていると感じながらやるのでは、本来その人に100の力があったとしても、80か60しか使えなくなってゆく。そしていつかは冴えない人生しか歩めなくなってしまう」なるほど・・・・。みなさんはどうお考えですか。
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