山梨県塩山市笠取山、標高1941メートル、多摩川はその南懐にある水干沢に最初の一滴をしるす。一滴、一滴が寄り合い、無数の沢が谷にそそぎ、次第に水量を増し、一ノ瀬川本谷、一ノ瀬川となり、さらに丹波川となる。
青梅街道は実は青梅の向こうは甲府まで延びている。その青梅街道に沿うようにして、水量をさらにまし奥多摩湖に注ぐ。
奥多摩湖を貯水湖とするのが小河内ダムで東京都民の重要な水資源となっている。
奥多摩湖をでていよいよ多摩川になり、また青梅街道沿いにすすむ。日原川、淺川、秋川などが合流する。ずっと下流になって、私の弟の住んでいるあたりを流れる大栗川だの野川だのが合流し、大きな流れになって東京湾に注ぐ。全長138キロ。
玉川上水というのは徳川家康が江戸に幕府を開いてからの50年後、西暦1653年に作られた。江戸市民の水をまかなうためで取水地点の羽村から四谷大木戸(現在の新宿区四谷)までが約43キロの堀、その先は石や木で作った水道管が地中に埋められ、そこから配水された。
熊川分水は、飲み水などの生活用水として、また下河原開発地域の農業用水として、玉川上水から分水を引き、多摩川に流した。分水工事は明治19年から23年にかけて、石川家をはじめとする熊川村の村民が1万576円余りの金を拠出し、幅1メートル長さ2キロ余りの分水堀を完成させた。
もともと石川家というのは、江戸時代庭場という近隣の共同社会の長として、また幕府直轄領熊川村の名主として、地域のリーダーの役割を果たし、将軍家への鮎の献上、朝鮮通信使の饗応といった御用をつとめた。玉川,多摩川の鮎は江戸時代前期より将軍家に献上されている。一度中止されたが1745年,高月村名主と熊川村名主石川弥八郎の三人が世話役に任命され、再び上納するようになった。
石川家は18世紀の終わり成木で算出される石灰の取引を始め、19世紀前期には青梅縞などを扱う在郷商人としての性格を強くし、質屋も営業するようになった。
1863年に酒造業に進出し、今日まで発展させている。酒は最初「八重桜」という商標で売っていたが、昭和8年から現在の「多満自慢」を使用するようになった。ビールのほうは初期「日本麦酒」の商標で製造し、東京・横浜へ転売したが、その後アサヒビール、キリンビールなどに押され、今では細々製造しているにすぎない。
先日、一人で拝島の駅をおりて散歩していて福生のビール小屋の看板のある石川酒造を見つけた。本蔵、新蔵などの多くの土蔵が残り、中にはビールを飲ませるところもあって、ちょっとした観光ポイントになっている。
ガールフレンドのAさんと一緒にこの土蔵群を見物し、多摩川の堤を散歩し、福生駅にでようと9時半ころ家を出てきた。
ところが少し早くつきすぎてビールが飲めず、資料館だけ見物し、早々に多磨川堤の散歩になった。桜が堤防の少し下に植えられ、四月になればさぞ見事だろう、と推定される。そういえばこの堤は明治40年の多磨川大洪水の後、熊川村村民によって造成されたものだガ、石川家も大いに貢献したという。
Aさんにいろいろ聞かれて、普段親しんでいるくせに、案外多摩川のことを知らないことに気がついた。適当に答えてごまかしたが、どうも面白くないので我が家に戻って、インターネットやら石川酒造でもらった資料やらをひっくり返して知識のまとめを行った結果がこのエッセイである。
ほかに山梨県の小菅村が2000年に、多摩川源流部に着目し、源流にこだわった街づくりをするため、多摩川源流研究所を設立した、奥多摩町立小河内小学校というのが小河内ダムの上流にあり、最高時296人いた生徒が今では8人になっている、などと知って驚いた。
Aさんとの散歩は、ビールを結局福生駅近くのイタリアレストランで、スパゲッテイの昼食と共に楽しんでお開きになった。
この次はいきなり福生に来て多摩川に出て、羽村方面にでも歩いてみようかと考えている。
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