480「私とキリスト教」(8月7日(月)晴れ)

ガールフレンドのAさんは、子どものときからのキリスト教徒である。現在も日曜日毎にプロテスタントの教会に通っている。しかし最近キリストの真の姿や聖書の成立史など読んで、教会のあり方に疑問を持ち始めたように見える。その彼女が私に聞くのである。
「あなたはなぜキリスト教徒にならなかったのよ。」

私は、15年ほど前イギリスの田舎で2年ほど過ごし、よほどクリスチャンになろうか、と考えた事がある。その頃は家の近くにある教会にも毎週通っていた。
しかしならなかった。処女降誕の話や復活の話が信じられなかった。ユダヤ人の歴史と思われる旧約聖書を持ち出すのもおかしい、と思った。
ブラックモアさんは、私が一時下宿をしていた家の大宅さんである。さらに研修していた会社の部長さんでもあった。夫妻は熱心なクリスチャンである。私が帰国してから、定年になり、現在も教会の牧師を支えて熱心に活動しているらしい。
奥さんが言うのである。
「処女降誕や復活は、まず信じなさい。どこかに行くのに列車に乗らなければいけない。向こうについてから列車の意味が分かる。そういうものだ。旧約聖書は、新約聖書を理解するために必要なのだ。」
しか私は、自分の考えを規制する気持ちを持ち合わせていなかった。旧約聖書については、それなら必要なときに読めばいいだろう、新約聖書の位置づけを知りたいならそれより歴史書の方が重要ではないか。
最後に奥さんが言った。「結局、子どもの頃からの教育が違うから、アタマからこちらの考えにあわせろといっても無理なのよ。」自分自身は、やっぱり論理立ててしかものを考えられないな、と感じた。

逆にキリスト教に対する疑問をかれらにぶつけてみた事がある。
「地獄に行くとか、行かぬとか、あるいは裁きの日が来たときに選別されるとか言うけれど、そういうとき異教徒はどうなるのだ?」
「歴史的に見るとキリスト教徒は異郷の地に行って布教に多くつとめているけれども、あのような苦しいことをなぜするのか。世界旅行でもしたいのか。」
最初の問いについては明快な答えは得られなかった。
後者については後から考えてみると主としてカトリックの考えだったかも知れぬ、彼等はイギリス国教だから少し違うのかもしれぬ。しかし一応の答えは得られた。
最初彼等は世のため、人のため、というようなことを言っていた。しかし議論が深まってゆくと、ようするに布教をすることによって自分自身が死後に救われる、天国に行ったとき主イエスの元に行ける、と信じているからだ、と言われた。なるほどと思いながら、やっぱり自己中心であることに違いはない、と思った。

ただし一方では、よいことはそれが半分自己目的と一致していようとやってみるべきだ、とも感じた。一昨年マザーテレサの映画を見た。彼女がああいう活動をしているのは、もちろん彼女の宗教上の信念もあろうし、自己実現の欲望もあろう、しかしそれを考慮に入れてもすばらしいことだと思う。
私自身は、今では死後の世界なんてない、と考えている。死んだら人間はそれでオシマイ、生あるうちせいぜい楽しんでおこう、そんな風に考えている。

最後にそうはいいながら、キリスト教徒の抱く道徳観に共鳴しないわけではない。ただ自分はそれを頭から信じるには近代的教育を受けすぎた、と感じる。またキリスト教の一番の課題は、異教徒をどう考えるかではないか、と思う。

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