483「わたらせ渓谷鉄道 U」(8月15,16日(火、水)晴れ)

4月に一人で行ったが(通信445)、今回はガールフレンドのAさんとわたらせ渓谷鉄道を、旅することにした。足尾銅山観光に加えて、あかがね親水公園を見物した。公園は、松木川(渡良瀬川)、仁田元川、久蔵川の合流地点にある。鉄道の終点、間藤からは3キロ強らしいが、緩やかなのぼり、行きはタクシー、帰りはぶらぶら歩いて戻った。

公園は、1996年に完成したものだが、見晴台から眺めると足尾砂防ダムと松木渓谷が見事である。ダムは、完全に保水力を失った山から、雨のたびに大量の土砂が流れだす対策として、1950年に完成した。堤高39.0m、堤長204m。渓谷にはようやく緑がみえるもののまだあれた感じの山肌。植林事業なども行われているようだが、完全に復活するまでに、まだ多くの時間がかかるという。あれた山肌を皮肉っているのだろうか、「日本のグランドキャニオン」だと・・・・。それでも今はカモシカが見られるらしい。

公園内に「足尾環境学習センター」があり、そこで松木村と足尾公害問題について知る事が出来る。以下それらをもとクロニクル風にまとめてみる。
1853年頃二宮尊徳がこの辺を廻村しているが、そのころは松木村周辺は、点在する農家が農林業を営む静かな地域であった。
1877年に古川市兵衛が、足尾銅山を経営することとなった。83年には産銅量が早くも日本一となった。しかし84年頃から、精錬するときに出る亜硫酸排ガスの煙害が大きくなってきた。87年、松木で大火が発生し、足尾の北部地域一帯の山林や住家を焼失した。
85年に松木以外の町村、95年に松木と古川鉱業の間に示談が成立した。さらに97年には工場に脱硫塔などが完成するが、環境は一向に改善されず、1902年についに松木村は廃村となった。亜硫酸ガスと、大火と、足尾銅山の坑道を支える坑木や精錬燃料として木材が大量に伐採されたため、環境が破壊された、ということのようだ。1955年に松木村の無縁墓が赤倉山龍蔵寺に完成した。ここも帰り道に見る事ができた。

廃墟となった足尾銅山の様子が対岸に見られる。1963年に産銅量6113トンで戦後最高を記録したものの、産出する銅の品位が下がり、73年ついに閉山になった。
カメラに何枚も収める。引込み線の駅、工場、排煙を出した巨大煙突までそのまま残っているが、何時になったら整理されるのだろうか。原爆記念ドームのように保存しておくつもりなのだろうか。
亜硫酸ガス問題は1956年に自溶精錬法の導入と硫酸工場の完成により解消された。同時に松木村などを中心に本格的な治山活動が始まった。ヘリコプターで種を山肌に吹き付けるなどしたそうである。

足尾鉱山鉱毒は、下流域にも、1885年の鮎の大量死事件に始まる一大公害問題をおこした。原因は、鉱滓に含まれる銅化合物、亜酸化鉄、硫酸、とされた。91年に田中正造代議士が帝国議会で始めて質問を行い大問題となった。さらに96年渡良瀬川大洪水が起こり、足尾から流れ出た土砂が滞積した田園で稲が立ち枯れ、農民運動を招いた。その結果、国は、田中代議士の出身地谷中村(現在の藤岡市)の土地を強制的に買い上げ、思川、巴波川との合流地点に、洪水防止と鉱毒の沈殿を目的とした渡良瀬遊水地を作った。ただし1906年谷中村は廃村においこまれた。一応の解決をみていたが、戦後Cdイオン問題は継続し、解決は1974年ころまで持ち越された。

河川汚濁問題は今では解決したようで、わたらせ渓谷鉄道車窓から見る風景はのどかで、季節になると鮎釣りなどの行われるとか。
足尾鉱山については、そのほかに戦時中、朝鮮人や中国人労働者の使用、1945年にはその争議なども問題となっている。社会見学のつもりで、あかがね親水公園とその周辺を訪れてみるのもよいかもしれない。私自身も次は渡良瀬遊水池を訪ねてみたいと思った。
ただこの地域も1978年に日光と結ぶ日足トンネルが完成し、80年には通洞坑口に足尾銅山観光が発足、89年には足尾線の第3セクターによる存続が決定するなどで新しい1歩を着実に歩み始めている。

付「わたらせ渓谷鉄道 V」

わたらせ渓谷鉄道を旅した帰り桐生で一泊した。
桐生国際ホテルというホテルに泊まった。桐生駅から車で10分くらいかかるからと迎えに来てくれた。運転手氏がいろいろ説明してくれる。
桐生は人口13万人くらい、戦災を受けず古いものと新しいものが混在する街である。
市は最近新里町などを合併させたため、妙な形をしている。間にみどり市がくいこみ、二つの肺のように飛び地になっている。
桐生は、東京に行くには東武を使うか、両毛線で小山か高崎か、なかなか不便だ。
大型商業ビルができないなど近代化という点では遅れている。むしろ地域によっては人口減に悩んでいるということだ。

「城下町かね。」ときくと「あそこの山にあるのが桐生城の跡地です。」
これですっかり城下町と思ったが、後で調べるとそうではないようだ。
桐生氏という一族がいて、その城を建てたのだが1500年代かそこらで、徳川になる前に滅ぼされてしまったらしい。江戸時代に入っては旗本領だったり、直轄地だったり。
「桐生には駅が三つありましてね。」JRとわたらせ渓谷鉄道の桐生駅、上毛電鉄の西桐生駅、それに川向こうの東武線の新桐生駅である。上毛電鉄というのもいつか機会があったら乗りたいもの、と思った。

桐生国際ホテルは山の上にある。というよりも山持ちの地主が始めたホテルではないか、と考えた。別名を「きのこの森」ホテル、山できのこ狩りが出来るらしい。このホテルは施設、サービスともよくお勧め、と思った。
部屋は7階だったが、ガラス戸腰に広がる緑豊かな山並みが心を落ち着けてくれる。
翌日、バスで桐生天満宮の前まで連れて行ってもらい、そこから桐生駅まで散歩した。

天満宮だから御祭神は菅原道真である。いろいろな学校の合格祈願の絵馬がずいぶんつるしてあり、盗み見てみるのも楽しい。
少し下ると金谷レース工場などのノコギリ屋根工場が幾つか点在している。かって桐生は西の西陣、東の桐生といわれるほど、織物で栄えた。まごまごしているとどこかの商店のおじさんが「これを御覧なさい。」とパンフレットをくれた。「桐生一、二丁目町歩きマップ」とある。織物工場で働く従業員たちが入っていた風呂まで載っている。街には近江の出身者が多いのだそうだ。近江商人が織物の買い付けに来ているうちにいついたとか。有鄰館というのは、矢野という店の本店、店舗、店蔵だったらしい。現在は町のイベント会場として使われているそうで、がらんとした蔵内で数人の男が看板のようなものを作っていた。その奥にからくり人形館。これもその時間に来れば楽しいのだろう。

本町通がメインストリート。しかしお盆の午前中とあって町は静かである。
桐生ガスの支店があった。ガス会社にいた関係で懐かしくなり、かかりの人に聞いてみた。需要家件数約25000件、宇都宮に向かっている帝石パイプラインからガスを引き入れて売っているとのことであった。隣の郷土資料展示ホールで企画展「群馬の化石といろいろな化石」というのをやっていた。ずいぶんと魚介類の化石が展示されていた。クジラまである。1万年も前にはこの辺は海だった、と知った。ちょっと大きな由緒の町はそこを歩いているだけで十分観光になる。新桐生から東武で浅草に戻る。

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