485「玄侑宗久の「お坊さんだって悩んでる」」(8月19日(土)晴れ)

著者については432で取り上げたから省略する。
この書はお坊さんむけの月刊誌「寺門興隆」に2年にわたって連載されたものをまとめたもので、主としてお坊さんの悩みに答えるという形を取っている。
彼の答えは、必ずしも明快とはいえない、迷いも見られるように思う、私と同じだ。しかしそこがこの本の魅力、現代の問題は簡単に割り切れるものではない、とも感じる。地味な書き方だが、著者の真髄に触れるようで一読をお勧め!

以下におもな設問と彼の答え、それに私の感じ・・・・・。

「子供にお葬式の意味を教えるには何と言ったらよい?」
残された人と死んだ人に「ふんぎり」をつけるためのもの、という解釈が面白い。卒業式みたいなものか。私の妻が亡くなったとき、義母が「火葬というのはいいものだ。これで思いを断ち切る事ができる。」といっていたのを思い出す。「お正月はなぜおめでたいか?何を祝うのか。」との設問もこれと似ている。
「夫の遺骨を散骨にしたいという願いをどうする?」
散骨を「死に際のワガママ」と捉える考え方には驚いた。考えるべきは誰もが採用できる共同体に根ざした埋葬法であり、人間に必要な「よすが」としてのお墓を大切にしたい、と説く。仏教を信じておらず、戒名など無用、と考える私は、死んだ後はどうでもいい、残された人が納得のゆくようにやればいい、と考えている。

「オウム真理教の麻原教祖の死刑を、どう考えたらよい?」
設問は死刑に反対でも生かしておくのも疑問というのだ。死刑を容認するか否かは国家意識の問題だが、「権力」としての国家は認めざるを得まい。国家としてはこの世での罪はこの世でチャラにするという考えである。ただこの判決を麻原がどう受け止めるかは自由で、「死刑こそ栄光」という考えを打ち立てることも可能だ。
「大震災のボランテイアに行かれず後ろめたいのですが、どうすべきでしょうか?」
檀家の、一人暮らしや高齢のお年寄りを慰めることだって大切だ。ただ仮にボランテイアに行くにしても、ボランテイアは正義として行われるものではなく、じつはおずおずと行なわれるべきものだ、という視点を忘れてはいけない。

「携帯電話を手放すと不安でたまらないのですが、病気でしょうか?」
時間の質やスピードを決めるのは自分自身である。外から来る情報を遮断して、内なる情報に耳を傾けよ・・・・この言い方にはまったく賛成である。
「人前で話すのが苦手な和尚さん、読経だけで法話をしないのですか・・・・。」
仏教のどんなところにほれているのか、そしてそれをどう実践しているのかはっきりしていればよいのではないか。「話したいことの2割も話せない、というが、本当に話したことの5倍も考えているのか」は、重要な視点と思った。本筋からそれるが、訪問者に対して「来ていただいた方には何か一つ持って帰っていただくように」との話もうなづかせた。

「お寺に定休日があってもよいか。」
これに限らず、「お寺はなぜ大きいのか?維持費も労力も、ムダにかかるのでは?」「お布施をいただくのに、寄付をするのが嫌いなのは悪いこと?」などは、どうも現在の僧侶が宗教家としての役割を忘れているように思えてならなかった。
「厄落としやお守りは、本当に効くのか?」
こういったもので自然現象が変えられる、などということはない。事が発生するまでは、お守りもお札も我々に元気を促すアイテム、事が失敗しても天命のなせる業と考え、再び立ち上がる勇気をあたえてくれるものと考えればいい。

追記 旅行をするため、1週間ほど通信を休みます。

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