504「太閤秀吉と秀次謀反・・・・若さへの嫉妬と失望」(10月21日(土) 晴れ)

1ヶ月ほど前、NHKの大河ドラマ「功名が辻」で秀吉最後の場面が放映された。
秀吉役の柄本明は二度も失禁する役をやらされ、大変だったと思う。しかしあの場面は妙に迫るものがあった。また淀の方(永作博実)が「今宵のとぎは遠慮させていただきます。」とした上で「殿は臭うございます」という。「ボケる」とはああいう状態になることをいうのだろうか。脚本の妙だが、残酷な発言で、秀吉にはぐさっと来る。

実は、私は彼の死そのものよりも、「ボケる」3年前に行われた甥の秀次討ちに興味がある。秀吉もすごいことをしたものである。関係者の処罰はともかく、秀次切腹後、30人以上の妻妾・子女の処刑を、京都三条河原に作った二十間四方の用地内でいっせいに行った。このときの彼女たちの辞世の句が、逐一伝わっている。その後、天皇の行幸まで仰いだ聚楽第を、秀次の「淫乱なる生活の場」として破壊させている。

古本屋で面白い本を見つけた。
小林千草著「太閤秀吉と秀次謀反・・・「大かうさまぐんき」私注」
秀吉の事跡を記した歴史資料として「太閤さま軍記」というのは第一級資料である。織田信長につかえ、あの「信長記」を残した太田牛一という人の作品である。
本書はその中から関係箇所を引き出してきて、これに私注を加えたものである。
著者は秀吉の行為を「若さに対する嫉妬しかいいようがない。」としている。

しかし私はそれ以上のものを感じる。以下、推論。
あれだけの残虐な行為に出たのは、若い秀次の能力によほど失望したからではないか。
秀次は秀吉(1537-98)の姉、日秀の子として1568年に生まれる。91年に鶴松が亡くなり、秀吉の養子となり、まもなく関白職を得た。
ナンバー2の難しさを感じる。91年に亡くなった弟の秀長は、ずっと秀吉をささえてきた。その彼を越えて関白の職にしたのは若さによほど期待したのだろう。確かに秀次は町つくりなどではなかなか優秀だったとの声も聞く。しかしパートナーというのは、相手の意向を踏まえ、足りないところを補い、満足の行くようにせねばならぬ。そういった役を演じるには、秀次は若すぎた?ふと私は源頼朝と義経の関係を思い出す。
93年に淀君との間に秀頼が生まれた。しかし秀吉はまだ秀次を後継者として認めていたのではないか。94年2月には秀吉・秀次は一緒に吉野の花見を行っている。ところが秀次は、翌年7月に高野山で切腹させられることになる。この1年半の間に何があったのか。
史書はかたっていないけれども、何かが秀吉を失望させた。個性の強い老人は、取り立てた男の能力が期待に遠く及ばぬと知ると、自分は見損なったと後悔し、激しい行為に出たのではないか。背景には朝鮮出兵がうまくいっていないイライラもあったかもしれない。秀長に加え、92年に母の大政所が他界していたから、秀吉にブレーキをかけられる者はいなかったことも影響する。
95年時点で、秀吉の家庭は秀吉58歳、北の政所53歳、淀君26歳、これに2歳の秀頼。一方秀次は28歳であった。もともと秀吉は、武家出身の北の政所には頭が上がらず、この頃は敬遠しており、淀君三昧であったことは、TVのとおりであろう。その淀君が息子のライバルに反発したことも当然。

ただこの事件を機に秀吉が、本当にブレーキの利かぬ車よろしく狂ったのは確かだ。翌年には家康の諌止も聞かず再度朝鮮出兵を強行する。最後にTVのようになったかどうかは、推論の域を出ぬが・・・。秀吉が亡くなったのは98年夏のことであった。
テレビや映画のメークは、こと年齢に関する限りかなりいい加減だと思う。秀吉に二度の失禁にもかかわらず、その頑固さと老醜には今一歩迫りきれていない気がする。同時に関白秀次の魅力と無能力ぶりに迫る事もできないでいるように思えた。

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