来年のNHKの大河ドラマは「風林火山」だそうである。これは井上靖原作である。その参考にしようと書店で見つけた。以下、その要約。
武田家は新羅三郎義光を始祖とする甲斐源氏の棟梁である。これに比べれば織田も豊臣も徳川も北条もろくな出自ではない。天下に号令する野望を最初から抱いていたのは、信玄ただ一人ではないか。彼は、禅の高僧たちによって教育を受け、「孫子」「呉氏」をよく読み、漢詩をものにし、和歌の道にも明るいなど大変な文化人でもあった。
信玄の父信虎は、決して凡庸な人物ではなく、強力な今川氏に対抗し、さらに提携にまでいたるが、これが北条氏との対立を深めた。また信虎の強引な性格と相次ぐ出兵による不満も多かったため、簡単に信玄による無血クーデターが成功してしまった。影には弟信繁との相互信頼関係が強かったことも上げられる。若い頃信玄の文学狂いが問題だったが、板垣等の重臣がこれをいさめた。
武田騎馬軍団といえば、駿馬にまたがった武者姿だが、騎馬隊はむしろ輸送能力の飛躍的増大をもたらしたことに意義がある。甲信二国はその軍馬の供給能力と管理能力に関して抜群であった。その上、山間部・盆地に多くの水田を有し、以外に豊かであった。この生産力を増強するのに不可欠であったのが治水工事だが、信玄は二十年近くの歳月を要して釜無川治水に成功した。また甲信の風土が生んだ数々の特産品も忘れられない。黄金や鉄資源の確保にも成功している。道路交通網の整備も盛んで、それが人と物の流通を盛んにした。
信玄は、多彩な人材を集めてその能力に応じて使い分けると共に、共通の問題意識を持ってもらうため、討議しあう場を作って、全体の意思統一とレベルアップに成功した。出家、町人、百姓などを使って情報を集め、それを駆使した謀略戦もなかなかに得意であった。
信長の比叡山焼き討ちを契機として、反信長連合戦線が出来上がって行った。一方で信長は、最後まで信玄との衝突を避けようとした。しかしついに信玄はたち、西上を始める。甲信は山国であり武田軍は、山岳戦は得意であった。しかし平地での戦いでは、単純に兵力と武器装備がものを言う。それにはなれていなかった。三方ヶ原の戦いは始めての平野での一戦であったが、家康・信長連合軍を打ち破る。しかし駒場で信玄の死。
しかし武田軍は(1)信長軍のように兵農分離が徹底していなかった。(2)有力武将たちが先祖伝来の地に根を張っていたため、大軍を動かして各地に転戦するには不利、また主家が落ち目になると地すべり的に崩壊する危機をはらんでいた。それゆえ著者は仮に京都に攻め上る事ができたとしても、うまくやっていけたかどうかは疑問とする。
近世日本の創業者たちはみな家康を除いて後継者づくりに失敗した。信玄が病没したとき勝頼はすでに28歳、実践の経験も積んだ気鋭の武将であったが、重い荷を背負わされることとなった。家康は二代目以降の繁栄のため、改易を容赦なく行う、参勤交代と大名妻子の江戸居住などによって一切の抵抗を封じたが、信玄はそれをしていなかった。
勝頼は、天正2年家康支配下の高天神城を落とした。「甲陽軍鑑」によればこのとき高坂昌信等は信長・家康との和解を進言した。
そして長篠の合戦。長篠での銃を主体とした戦法は、西洋にもまだ見られぬ織田・徳川連合軍の独創であった。前夜危険を説く重臣たちも多かったが、はやった勝頼をとめられなかった。騎馬軍団の壊滅。敗戦後には高坂昌信等は謙信と結び、北条とも良い関係を結ぶことを進言するが、勝頼が取り上げることはなかった。以後武田家は、坂を転がり落ちるように凋落し、破局が迫ってくるのである。
家康は領土・資源・人材等多くを信玄の遺産として受け継いだが、それ以外に信玄を正面教師として、また反面教師として徹底的に学ぶことを忘れなかった。第一は法治主義の徹底、第二は甲州一国を一大城郭とした発想を関八州にまで拡大したいわば首都圏構想、そして第三は治水対策であった。
武田信玄の人心掌握術、情報活用論などは現代でも学ぶところが多い。そのあたりをこの書はよく書き表しているように感じられた。
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