建国の日の振り替え休日。
要するに国民は、なんであろうと休日には賛成なのである。神武天皇が即位した紀元前660年2月11日は、明治初期、新暦移行にともなって、あわてて計算した数字。大体そのころ日本は縄文時代で、神武天皇も本当はいなかったらしく、根拠はあやしい。
ところが戦後になって建国の日を作ろう、という国民の希望だけは高まった。何時にするかはケンケンガクガクの議論になった。まさか8月15日にするわけにも行かず、ほかにないからという理由で、もとの2月11日になった。建国を祝うけれども、その中身はわからない、なんとも妙な祝日。もっとも最近は文字が赤にしてあるが、何の休日か分からぬ暦ばかり目立つ。昭和の日、みどりの日、海の日、皆さん、いつか分かりますか。
そういえば国旗を掲揚している家なども全く見当たらぬ。建国の日に共産党はさすがに反対らしいけれど、それだからといって別に運動をしている様子も見られない。
しかし普通の日は休みにせずに特定の日だけ休みにするのは、何かの意味があるべきではないのか。国家はそれを認めた以上、国民に宣伝し一緒に何かを祝おうとするべきなのではないか。国民はそれを祝って旗を掲げるくらいはすべきではないのか。もう一つ言えば国家も祝日とする以上その意味づけをはっきりさせるべきではないか。
もしそうでないのなら一律に元旦から数えで50番、100番、150番目・・・の日は、休日を多くしたいという国民の希望に沿って休みにします、と言ったほうが、きれいサッパリするというものではないか。祝うことには反対だけれど、みんなが休むというのは賛成・・・・という議論を聞いていると、何となく権利は確保する、しかし義務は知らない、という近頃の問題点そのままに見えてくるように思う。
「日本はどんどん悪くなってゆく」と嘆く人がいる。
その嘆く中身を考えて見ると、学校教育がおかしくなったり、みんなの道徳観がなくなったり、日本人としての本質が忘れられたりなどいろんな議論にたどりつく。しかし自由がいい、国民は文化的な生活を営む権利がある、そんなことばかりを主張し、己としてやるべき事が成されていないところに問題があるのではないか。そしてさらに悪いことに、それが当然である、と考えるようになってしまったことだ。たとえば平和な繁栄した日本を願いながら、国際的な役割は日本の勝手だからと放棄し、周辺国から少し驚かされれば、国家や自衛隊は何をしていると騒ぎ、そもそも外国人の受け入れはおかしい、何でも国際化すればいいというものではない、などと評論家のように言う。
水仙が咲いているに違いない、とガールフレンドのAさんと午後立川の昭和記念公園に行く。水仙は数が少なかったが梅が見事だった。それから土の中から負けるものかと黄色い福寿草の花。ウラウラとはれた広場にお母さんたちは寝転がり、子どもたちは跳ね回り、することのないお父さんたちは近頃はやりのデジタル一眼レフをふりまわしている・・・・。平和な、平和な日本、結構なことだ。しかし船の上の生活のように、板一枚下は地獄なのかもしれない。そうとすればその認識くらいはして、みんなが地獄に落ちるなどと言うことのないように協力・努力する事が大切ではないのか。
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