575「IT社会とイジメ問題」(7月15日(日)雨)

講談社ブルーバックス正高信男著作の「他人を許せないサル」、「ヒトはなぜヒトをいじめるのか」の2冊を読んだ。著者は1954年生まれ、大阪大学人間科学部卒で、現在は京都大学霊長類研究所教授。いじめ問題などを、心理学を背景に、サルの社会などと比較しながら平易に解説している。比較的薄く、読みやすい。

「他人を許せないサル」
ケータイが普及してきて、それがない生活は想像できない日本人が、増えている。ひっきりなしに送り続け、受け続け、独自の絵文字まで発明してしまった。子供のころからケータイになれ親しんだ世代は、親と距離をおき、友人とはケータイやメールでまずやり取りするようになっている。さらに性風俗とのつながりも無視できない。フィンランドは、ケータイがもっとも普及している国だが、そのような現象は見られない。
かって、日本は、個人が共同体の犠牲になる社会でありながら、その共同体によってもたらされる相互扶助に満足し、生活を満ち足りている、と感じているような社会であった。サルの作る共同社会に似ており、そこには横並びの美学のようなものが存在した。共同体メンバーとは結束を固める一方、よそものには排他的であったりした。
そういった社会が、崩壊した昭和30年代には、まだ便利になれば幸せになると幻想があった。ただ周囲の反応から、自分を作らなければならぬ状況には変わりがなかった。そこに欧米から個人主義が流れ込んで、ねじれ現象のようなものを起こしていた。
夢が費えた頃、IT社会が突如出現し、ケータイなどにのめりこむ層が出現し、独自の溜まり場を作り始めた。一方で昔からある共同社会にあこがれているとも言える。しかしケータイでは相手の真の様子が分からぬから、仲間はずれにされている、自分だけが損をしていると感じるものがでてきた。切れやすい人間を産み、ネットを通じてのイジメ社会を産んだ。匿名性が、それに輪をかけ、自分だけよければという無責任なネット社会を作り上げた。これが進めば今世紀中ごろには日本人の思考やコミュニケーションは「裸のサル」同然に転落して行くのではないか,と懸念される。

「ヒトはなぜヒトをいじめるのか」
イジメは、動物と人間の、同じ種の仲間に対する攻撃で、本能的なものの様に見える。いままで、子供は兄弟げんか等をつうじてイジメとイジメラレルを学び、成長していった。いわば通過儀礼のようなものであった。世間はお互いに助け合っていた。しかし世間という共同体が崩壊して、IT世界が出現した今、世間が持っていた良さがなくなり、ケータイでお互いを監視し、誹謗中傷しあう悪しき習慣だけが、取り残された。そのような環境の中でイジメが問題になってきた。
サルの社会にもイジメに近いものはあるが、群れ型の場合、メンバー間の順位性がはっきりしており、攻撃は一般にその場限りである。ヒトの場合、加害者、被害者に加え、はやしたてる観客と知らぬふりを決め込む傍観者がいること特色である。イギリスでは年齢とともに仲裁者が増加するが、日本の場合にはこの傍観者がふえる。
傍観者を決め込んだり加担する親を調べてみると、母親密着型の家庭が多い。家庭で家内領域は母親、公共領域は父親と分離されている事が一つ原因のようだ。とにかく自分だけ平穏であればいい、クラスに問題があっても、子供はリスクを背負って火中の栗を拾うようなことに関与するべきでない、とする守りの姿勢が目立つ。子達の社会的に自立を後押しする父親の不在化した事も揚げられる。
女性は生まれながら上手に子供を育てていける、と言うのは嘘である。父親も含めて親になる技術を学ばなければいけない。ヒトと人たらしめているのは、自己意識を持って「自分はこういう風に社会とかかわってゆくんだ」という主体性を持つことである。社会と言う公の場で自立することが人を人たらしめているのだ。そうなるために子達は兄弟の誕生、人の突然の死、時には天災などを経験し、社会規範が教えられなければならない。受験勉強は悪だ、などという人もいる。しかしストレスそのものから学ぶところは多い。

追記 全く関係ない話であるが朝の視点・論点で音楽家の服部公一氏が夏休みの家族旅行のマナーの悪さを指摘していた。そのなかで子供の教育は哺乳動物を人間にするようなものだ、善悪、我慢、恥の三つを親がこういう機会に教えなければ成らぬ、と言っていた。同感である。

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