中公新書。著者岡田温司は、1954年生まれ、京都大学大学院教授。ルネッサンスを中心とした芸術論の著作が多いようだ。この書では、マグダラのマリアを信仰、風俗、美術の三方向から捉えようとしている。
新約聖書でマグダラのマリアは「福音の旅」の随行者として、「キリスト磔刑、キリスト埋葬、キリスト復活の立会人」としてのみ登場する。回心した娼婦と言う、彼女のアイデンテイテイの核心に当たる部分の記述はない。
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネで、彼女の取り扱い方が異なる。ルカではマグダラへの不信感をあらわにし、一方でペテロの威信を持ち上げようとしている。マグダラとペテロは、一連の外典でも一層激しく対立している。ペテロは、イエスに「マグダラのマリアは私たちの元から去ったほうがいい。女たちは命に価しないからである。」とする。イエスは謎めいた言葉ではあるが、その非を諭そうとしている。いづれにしろ、この段階では罪を犯した女性とはみなされていない。
しかし6世紀になって、教皇大グレゴリウスがヨハネ、ルカなどに新しい解釈をほどこし、マグダラに取りついていた7つの悪霊を、七つの大罪・・・邪淫、貪欲、貪食、怠惰、憤怒、羨望、高慢にほかならない、とした。結果として彼女は罪人たちの悔い改めと希望の模範となり、キリストへの敬虔な奉仕と瞑想的生活の理想となった。
時代が進むと、彼女には人々の欲望や願望、期待や不安がそのつど加えられてゆく。まるで「重ね描き写本」のように・・・・・。カロリング朝の神学者ラバヌス・マウルスは、比類のない美しさを強調した。その美しさゆえに罪を犯したのだとした。また「エジプトに出現した聖女」の隠修士ないしは苦行者としてのイメージが重ねられた。さらにヨハネの花嫁であったとする説、復活の第一証人とする説・・・・。これらが13世紀ドミニコ会修道士によってあらわされた「黄金伝説」には集大成されている。
1215年第4回ラテラノ会議で「1年に1回告解を義務付けること、托鉢修道会に説教の任務を与えること、ミサで司祭の聖別によりパンとワインがキリストの肉と血に変じること(化体説)」等が決められた。このうち化体説は、キリスト像を初めとする聖画像への崇拝をますます助長した。こうした中で、マグダラは西洋キリスト教文化の社会にとって、それまでになく重要な地位を占めるにいたった。フランチェスコ修道会、ドミニコ修道会、信者会等。激しい感情や動きが加えられたかと思えば、ますます美しくなり、現実の人々のイメージが重ねられた。
中世、女子修道院や娼婦のためにマグダラが描かれるようになった。画家のモデルにも娼婦が使われた。一方で教会は、宗教画の「適正」にひどく神経質になり、マグダラを「もっと敬虔な外見を持つように変更すべし」あるいは「娼婦」であったような表現を避けるべし、とのお達しを出した。ボッテイチェリ、カラヴァッジョなどが活躍した。
バロックになるとマグダラは、マルタの家の会食、キリストの磔刑、復活などの物語から独立して、単独で登場するようになった。彼女の内在している聖と俗、敬虔と官能、精神性と肉体性、神秘的禁欲と感覚の喜び、が多彩な形で表面化され始めた。
一方でマグダラは、宮廷人の求めに応じ、その洗練された好みを意識して描かれるようになった。テイツイアーノの「悔悛のマグダラ」で、マグダラは、ヴィーナスと見まがうような豊満な肉体と美しい髪で登場する。しかし一部に言われるように、もっぱらエロテイックな視線に耐えられる様にのみ描かれたわけではなく、感覚的美しさとともに宗教的な敬虔さ改悛の気持ちも備えている。これらは背景には新プラトン主義、つまり理想の美が神の観想へと通じるという哲学がある。
キリスト教の枠を超えて豊な連想を喚起させる作品は、すでに16世紀クーザンの作品などに見られる。さらに時代を経ると、その傾向は一部ではサデイステイックでマゾヒステイックな表現を見せる作品まで出現させた。
その後も、マグダラのマリアは不死身である。「ボヴァリー夫人」「アンナカレニーナ」などは彼女と言う原型なしには考えられないし、最近の美術や映画にも彼女を扱った作品が多く見られる。聖母マリアが気高い存在であったとすれば、マグダラは現世を生きる人々にとってはるかに親しみやすい存在であった。愛と性、ジェンダー、信仰といった根源的テーマにおいて、これからも彼女は現実の社会と想像力の世界を自在に往復しつつ、末永く行き続けるであろう。
以上が要約だが、最後に自分の感想、私のような非キリスト教徒にとってマグダラのマリアは必ずしも近い存在ではない。西欧の教会を訪れてもマリアを祀っている、と聞いてもマグダラのマリアか聖母マリアか区別がつかぬほどである。しかしその信仰は中々に深いようで、そういったものを理解するためには面白い著作と思えた。
註 ご意見をお待ちしています。
e-mail agatha@bekkoame.ne.jp
home-page http://www.bekkoame.ne.jp/~agatha