年賀状をようやく印刷し終えた。
去年は、芋のような「猪」の絵を筆で書いた。これからは多少無理でも年賀状は干支の絵を筆で描きたいものだ、と思った。そこで筆で「鼠」。ミッキーマウスとトムとジェリーの「トム」は人口に膾炙しているけれど、あんな愛嬌のある鼠など、そう素人が思い浮かぶものでもない。まともな鼠を描こうと筆を動かすが、猫だか、いたちだか、馬だか分からない。町の文房具店などで、それとなく年賀状コーナーにより、みんなどんな風に描くのだろう、と眺める。しかしなかなか気に入った自分に描けそうなものがない。中にはハリネズミの針を描いてごまかしているのもいるが逃げたくない。
結局左向きのごく普通の蹲っている絵を鉛筆で薄く描き、その上をなぞるようにして筆を動かした。尻尾だけは思い切り長く描いた。なんだかドブ鼠みたいだ。TVによると、小動物を描くときたいていの人は左向きに描くとか。私は右向きに描こうとするが、気が乗らぬ。そのうちに図柄はコピーして画像としてパソコンに取り込み利用する、絵の鼠は半紙に描いたのだから裏返してコピーすればいい、と気がついた。
墨絵は筆の濃淡に魅力がある。濃いところから淡いところに自然にうつってゆくところがいい。そう簡単には行かぬ。仕方なく思い切り薄く描き、次に少し濃く描きと3段くらいに重ねる気持ちで描いた。別に小筆を用意し、髭、鼻先、目などを描きいれる。最後に鼠の上に「あけましおめでとうございます」といれた。私はこの言い方が好きだ。謹賀新年だの賀正だというのは、なんだか堅く老人のように感じられる。
しばらく見ていたが平凡、そのうちに首をあげて、2008と描いた風船を鼠が鼻先でつついているようにしたらどうか、と考えた。昔、チャップリンの「独裁者」という映画を見た事がある。ムッソリーニと会見し、地球儀の形をした風船をつっついて喜ぶシーンがある。あのシーンを思い出す。どんな悪い「鼠」が2008年の世界を動かすやら・・・・・。そういえば今年はどこの「猪」が突き飛ばしたのか、ひどい年だったなあ。大体1年を代表する文字に「偽」がえらばれるのだもの・・・・。
割りに気に入った図柄になった。ただ頭のほうはともかくとし尻のほうは相変わらず猫か馬の尻の様にも見えなくもないが我慢、我慢・・・・。すべて墨で、何となく色気がなく感じられた。そこで耳に絵筆で朱を入れた。なんだかリボンのように見えなくもない。ガールフレンドのAさんに見せると「あら、可愛い」と好評だった。
そう、そう、落款もデザインのうち。手作りの落款はどうも稚拙だ。亡くなったカミサンが結構ゲンを担ぐほうで、私の姓でなく名前を平仮名で書いた大きな判子を作ってくれた。その判子を取り出し押す。案外感じが出る。文章も加え、パソコンに取り込み完成。近況報告の意味で自分の顔写真も取り込んだ。一昨年あたりまで海外旅行に行った写真を入れ、得意になった。あるとき「海外旅行に行けない奴の身になってみろ!」と言われ、清里高原に行ったときの写真にした。
あて先も筆で書きたいものと考えていたが、裏面に当方の名前、住所等を描かなかったので表面に書く必要が出てきた。それが面倒くさくなり、結局ソフトによる印刷。
そういえば今日から年賀状の受付が始まったそうだ。郵政公社は女優の吉永早百合など引っ張り出して宣伝している。民営になると少しは儲けなければならない、と考えるようになったのか、「年賀状は贈り物」などと宣伝している。背景にはメールや電話の普及で年々年賀状を出す人が少なくなっていることがあるとか。いいことだ。
今年は120通余り出す。私は、最近は年賀状の交換は「まだ生きていますよ。」とお互いにエールを交換し合うようなものだ、と感じる。自然の成り行きで、つきあいがなくなるといつか出さなくなる。しかしそれはその分、自分の世界が狭くなり、死にちかづいたように感じ、出来るだけ送るようにしている。
年の瀬である。そろそろ年賀状を書かなければいけない。来年は子年。
ネズミの絵はなかなかむずかしい。筆で描いているうち、そもそも猫とネズミといたちの形はどういう風に違うのだろう、など考え込んでしまうレベル。
昔は木版を作ったものである。あれは一般に普及している優れた印刷技術がなかったからだ、と思う。やがてプリントごっこができ、今ではパソコンが普及している。とすれば自己表現の手段として、版画しかない、と言うわけではなく、墨絵でも絵手紙風でも図案でも何でも自分で描いてそれをパソコンに取り込めばいい。写真や文字さえ組み合わせることも出来るのだから、便利な世の中になったもの。
スポーツクラブの帰りにA君に出会う。
彼とは高校同期の仲間。私は定年後悠々自適でぶらぶらしている。回りから「元気なのだから働けばいいのに・・・・」と言われる。しかその点に関しては、A君は大先輩である。何しろ30過ぎから会社を辞めて何もしていないらしい。彼と出会うといつも喫茶店でお茶を飲む。ボヤキ話を繰り返す。それにも今日は少々飽きて私から話題提供・・・・・。
「来年は子年だね。子を12個並べてなんと読むか知っているかい。」「?・・・・」
「私は素直にネズミが12匹、と読みたい。コッコッコッココケーッコ、コッコッコッコッコケーッコと読んでもいい。」
「なんだ、それは・・・・。」
「しかし正解は違う。確か小野篁と言う人だったと思う。ネコノコノコネコ、シシノコノコシシと読んだ。」
しかし漢和辞典を調べると子という字は、シ、ス、コ、などと読み、もともとは古い字形で手を動かしている子供をかたどったものだそうだ。もと幼い子の意であったが、ひいて若者の意。転じて男子の敬称に用いられる。また十二支の第一位の名・・・・・。ネコだのシシだの読む例はないから念のため。ついでのことに、鼠と言う字は子とは関係なく象形文字的。上が歯を、下がからだ、つめ、尾をあらわしているのだそうだ。
来年は子年だが、今年の猪年はひどかった。弱き人民は騙され続けた。
サブプライムローン問題をみろ、あれは貸し付けた当事者は危ない、とわかっていたに違いない。しかし知恵者がいた。そういう債権なら小口にしてみんなに押し付けてしまえばいいではないか。その結果が何で日本人のおれまで損しなきゃならない?
最近では額賀財務大臣の喚問問題がひどかった。自民党欠席のまま、喚問を決議なんていう暴挙を行いながら、「共産党から言われましたから延期する」とか。あれはもともとがガサネタだった、それを共産党から指摘されて永田議員事件の二の舞になってはと矛を治めたとする説、もう一つはあの事件を突っつけば、必ず金丸さんの一の子分だった小沢さんが攻撃される、それでいいかと自民党から脅かされてやめたという説、どれが本当やら、いずれにしろ、人民はツンボ桟敷であることに変わりはない。
この辺になると巷のボヤキ節、世の中が悪いことになり、自分たちの投資判断の誤りはみてみぬふりになるのだけれど・・・・。
「来年はどうだろうね。是非いい年なってもらいたいものだ。」
「子と言う字をシ、コ、ネなどと読むんだね。じゃあ、組み合わせたらどうだ。」「?・・・・」
「12個の子を2つずつ6つに分けるんだ。最初の子をシと読む。二字目をネと読む。6回繰り返してごらん・・・・」
「・・・・シネ、シネ、シネ、シネ!冗談じゃない!」
註 ご意見をお待ちしています。
e-mail agatha@bekkoame.ne.jp
home-page http://www.bekkoame.ne.jp/~agatha