619「渠という字」(12月25日(火)曇り)

ある人が、良い本と言うのは「何年もたってもう一度読みたくなる本だ。」と言っていた。そのときに別の感動があるから、と言う。しかし感動したどころか、その中には何が書いてあったのかすら、思い出せないものがある。
漢字検定の模擬問題は、最後に実際の小説などの一部分を取り出して読ませたり書かかせたりする。たまたま、泉鏡花「義血・侠血」の一節であった。殺人罪で法廷にひきだされた「滝の白糸」が3年前に助け、ひそかに恋心をいだいた村越欣弥とであう場面である。かって車引きをしていた欣弥は学識と智慧をつけ、今では判事となっている。
ところがあらためて出くわしてみると難しい文字の連続。ほとんどルピがふってあるかそれ頼りでなければ読めない。試験の点数としては50点くらい?

筋は分かっている。読んだことも記憶している。しかし分からない字の連続なのである。しかも中に一字、問題なっていないが、ルピの振っていない文字がある。「渠」とい文字である。この字はこの小説には非常に良く出てくる。そのために小説の一番最初のほうで振ってあったらしく、もうこの段階では読者は読める事が前提になっているらしい。
手元に漢和辞典があったので調べてみる。音読みでキョ、訓読みでみぞ、意味に@みぞ、ほりわりAかしらBかれ、三人称の代名詞とある。「かれ」と読むべきかと思ったが、すると文意から、この字が場合によって主人公の滝の白糸、相手役の村越欣弥の双方をさしていることに気づいた。おかしい、「キョ」とでも読むのだろうかと、本屋に行き、泉鏡花を探した。ようやく探しあてて最初から「渠」の文字をおってみると、やはり「かれ」とルピがふってあった。どうやらこの時代には三人称で現代の「これ」や「あれ」と「かれ」と言う用語を男も女も関係なく単なる指示代名詞として使っていたらしいのだ。

小学校時代、なんでもいいから読んでごらん、と読書を薦められた。おかげで、漱石も龍之介も鏡花も大体読んだつもりである。買い求めたり、図書館で探し出したりして読んだのだけれど読めない字が多い。すると大人たちはいったものだ。「周りから推定できるでしょう。」素直にそうしたから、その習慣がずっとついている。今でもちょっと難しい書物になるとそこのところ飛ばしてもしくは適当に類推し読む。もう無意識である。しかこれは正しい意味が伝わらないどころか、読書の感動を薄める。
斉藤孝と言う人が「声に出して読む日本語」という書物を出した。
この書は「現代日本ほど、暗誦文化をないがしろにしている国は稀ではないだろうか。」と断定した上で、著者の選んだ文章が相当大きな文字で並べてある。大きな声を出して読むとどれもいい文章で名調子なのである。たとえば平家物語の冒頭:「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず。唯春の夜の夢の如し・・・」あるいは夏目漱石の「草枕」の冒頭:「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流させる。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」などである。

書の目的にはなっていないけれど、声を出して読む、ということは別の意味でもよい事がある。ごまかしが利かないのである。読めない字をなんとなく分かった風に読み飛ばすわけには行かない。実は最近は書くことにも当てはまるような気がしている。墨で書くといい。鉛筆で小さく書くとつい弱い自分に負けるのかごまかす。墨だとそれがきかない。もっともこれはだらしない字を書く私だけの話かも知れぬ。
さて問題を終え、答え合わせも行った後、あらためて「義血・侠血」のこの場面を声を出して読んでみる。やはり名文、なかなか感動的である。この文章はひょっとして声を出して読むために書いたのではないか、そんな気すらし、やっと本の一部ではあるが作品を読んだ、と感じた。皆さんは過去に読んだと考えている本に自信がありますか。

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