ゴールデンウイーク、陽気はいいからどこかに行きたい。しかし日帰りでいけるところ、平地がいい、とガールフレンドのAさんの希望に応じて佐倉に行こうと決めた。
北総台地の中心に位置し、旧石器時代より人々の営みが続けられていた。江戸時代には城下町として繁栄し、「西の長崎、東の佐倉」と呼ばれた蘭学の町でもあった。加えて佐倉惣五郎にマスコミでも耳にする国立民族歴史博物館、一度行ってみたいと思っていた。
国道沿いに15分くらい歩き、まずは歴博こと国立民族歴史博物館。
入口にむかうスロープを上りだすと右手になかなかよい顔の石造の仏様。近寄ってみると大日如来で、臼杵石仏とある。本物かと疑うと小さく複製の文字。やっと気がついた。この博物館は市立ではなく、国立である。
5つの展示室は旧石器時代から、律令国家が成立するまで、平安時代から桃山時代まで、江戸時代の人々の生活と文化、日本人の民族世界、19世紀後半から1920年代までの日本を紹介している。佐倉市の歴史はほとんど見られない。
テーマに沿ってふんだんにお金をかけて資料を整えたという趣。実物を集められないところは複製、写真等あらゆる技術を使って見せている。子供たちの教育の場としては最適、と見えた。そのせいか学童の入館料割引はあるが、老人の割引はない・・・。
いろいろ興味があったが、そのうちの一つが、日本の印刷史の展示。従来日本では全体を彫る板木印刷が行われていた。韓国で、李朝の15世紀初頭頃から、活字印刷が盛んになった。豊臣秀吉の朝鮮戦役で大量の銅活字が日本に持ち帰られた。天皇家がこれを使って四書五経などを出版した。現物が展示してあった駿河版銅活字はこれらの技術の延長にあるようで家康が作らせ、「大蔵一覧集」「群書治要」など印刷されたそうだ。
歴博の東側に、印旛沼から流れ出た鹿島川、高崎川を背に佐倉城址公園。佐倉城は、徳川家康の命をうけた土井利勝によって、1611年から16年にかけて築城された。1633年土井氏の古河転封後、石川・形原於平・堀田・大給松平・大久保・戸田・稲葉・大給松平の各氏に受け継がれ、1746年からは堀田氏が入って明治維新を迎えた。
1652年に堀田正信の時に、重税の上に飢饉、洪水に無配慮の行政に、佐倉惣五郎を中心とする佐倉騒動が勃発、時の将軍綱吉に直訴するところとなった。首謀者は斬罪となったが、その霊が成田宗吾霊堂に祀られているとか。
幕末の藩主、堀田正睦(1810-64)は幕府の老中首座としてアメリカ総領事ハリスと交渉、日米通商条約の幕府側責任者として調印に尽力した。蘭医学の採用や西洋兵法の導入、農政の刷新など、数々の藩政改革を実施した開明的藩主としても知られている。
明治維新後、城は廃城となり、残っていた建物はすべて取り壊され、跡地には旧陸軍(佐倉第57連隊)の兵舎、戦後は国立佐倉療養所が置かれたが、今日では国立歴史民俗博物館の設置や城址公園としての整備が進められ、佐倉市民の憩いのオアシスとなっている。
城は復元する話があるのかどうか・・・・ウエブサイトには想像図などでているが少なくとも今は公園。公園内をぶらぶら歩く。城は石垣を一切使わず、土塁によって複雑な通路を作り、城本体へのアクセスを難しくしている。本丸跡に出るが芝生にしだれや桜があるのみ、アベックが一組憩っていた。この27日時代祭りが開催され、殿様やお姫様姿の人々が繰り出した。近くの城跡一部は駐車場に使ったらしく白線で区切ってあった。
坂を下り、姥ヶ池をへて、20分ほど行ったところに、昔のままに旧河原家、旧但馬家、旧武居家の3種類の武家屋敷が公開されていた。城下町は、武家屋敷は城の周りに、商人の住む町屋は街道沿いに並び、はっきり分けられていたそうだ。武家屋敷は、大半藩が所有し、藩士に貸し与えたから、藩士はその職務内容や俸禄に見合った住宅に住んだ。そのため居住者がよく変わったそうだ。当時の武士の暮らしぶりの一端をうかがえる。
少しコースからはずれて、旧堀田邸があることに気がついた。最後の佐倉藩主堀田正倫の邸宅で、明治時代の上級和風邸宅としては庭園と共に残っている貴重なものとか、この次訪問する機会が来て見たい。
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