町を歩いていたら、柏餅を本日限りのセールと宣伝し、多くの人が買い求めていた。
海岸は潮干狩りの客でごった返していると新聞が報じている。テレビは、道路が連休中では一番込んでいると伝えている。夜、NHKは、歌謡曲の時間に、デイズニー関連の歌ばかり、舞台にお城や公園を再現し、お姫様やミッキーが踊る。そしてどこやらでは巨大な鯉のぼりをあげた、とのニュース。今日はこどもの日である。
ガールフレンドのAさんと私、二人の老人?組は「つぐない」という映画を見ることにした。イギリス映画らしく、イアン・マキューアンという作家のベストセラー小説を映画化したものとか。
物語は1935年のあるイギリスの上流家庭に始まる。セシーリア・タリスは、家に仕える使用人の息子で聡明はロビーに特別な愛を感じる。ところが多感なその妹のブライオニーは嫉妬交じりに嫌悪、ある嘘をつき、ロビーを刑務所送りにしてしまう。
やがて第二次世界大戦が始まる。ロビーは刑務所からフランスの前線に送られ、いつかセシーリアと再開することを願って戦地を彷徨する。しかしナチスドイツの猛攻でイギリス軍はダンケルクから悲惨を極めた撤退を敢行する。
そのころイギリスの病院で働き始めたブライオニーは、次から次へと送られてくる負傷した兵士たちに対応するうちに、ロビーを刑務所に追いやったことを深く反省する。ある時、意を決して、セシーリアと戻ってきたロビーの家庭を訪問、昔の過ちを謝罪する。そして二人は幸せな生活を送り始める・・・・・。
さてこの先は、本当は書くべきではない。推理小説の種明かしをするようなものだから・・・・。しかし思うところあってあえて書く。作家となって年老いたブライオニーが登場し、出版者の男と会見する。彼女はもう小説は書かない、実は私は医者からある病気で余命いくばくもない、と宣告されている、と語る。この小説について
「実際の私の経験。でも本当は、ロビーはダンケルクで敗血症で亡くなったわ。姉も戦争中に病気で亡くなってしまった。でもそれでは読者に希望を与えられないでしょう。」
余命いくばくもない、という発言も実は作り話では、と思わせるような発言である。
しかし物語としてはよくある手法と思う。読者はストーリーに酔うけれども、最後に現実はこうだったとか、夢であったとかよくやる手だ。
物書きでなくても、現実をありのままに書いても面白くない、ということはわかる。一方で、現実をありのままに書くことがいかに難しいかも、自己に正直に向き合うことがいかに難しいかもなんとなくわかる。
私も定年になってからこの日記風エッセイを書き始めた。
自分はいま何を考えているのだろう、と心の中を探ってみる。そして一番今日、あるいは昨日関心のあることを書こうと勤めている。そしてパソコンに向かい文字をうちまくると胸がすっきりする。株が下がった、政界で起こったこんなことが気に入らない、おいしいジャムが作れた、このまま私は朽ちてゆくのか等。しかし出来上がった文章を読み返し、再び心に聞いてみると、いかに自分が飾っているかに気がつく。もっとも・・・・・世間体もあろうからもう一回上塗りをしてパソコンにアップロードしたりするのだけれど。
小説とは所詮作り物である。ある作家が言っていたけれど、明智光秀を主人公にする小説なら、秀吉や信長を悪者にすればいい、信長の英雄談を書くなら、光秀が天下の極悪人だ。確かに歴史的事実に基づいている。しかし歴史的事実は見方によって千変万化する。その見方を少しばかり工夫してやれば読者は満足する!
昔の歌に「青春時代が夢なんて、あとからほのぼの思うもの。青春時代の真ん中は道に迷っているばかり・・・・・」別に青春時代でなくても道に迷っていることばかりの人生ではないか。あっちに行ったり、こっちに行ったりしながら、たどり着いた道が町の浮浪者であることもあれば、一国の首相であることもある。でも大半は平々凡々なひとばかり・・・・それが人生とようやくわかってくる年齢に、私も来たのかもしれない。「天命を知る」か。
面白くもなんともない。美談に、成功談にあとから書き換えて初めて読者の望むものになる。実は読者も小説に現実を見るなんていることは望んでいないのではないか。一時夢の中にたゆとうてみたいと考えているに過ぎないのかも知れない。
最後に主人公の老作家が、これが最後の小説、といった意味について考える。本音は、もうそんな作り物の世界に嫌気がさした、自分はありのままの姿で行きたい・・・・・。
註 ご意見をお待ちしています。
e-mail agatha@bekkoame.ne.jp
home-page http://www.bekkoame.ne.jp/~agatha