669「新派公演「鹿鳴館」を楽しむ」(6月14日(土)晴れ)

新橋演舞場で三島由紀夫原作「鹿鳴館」を楽しむ。新派120周年記念公演と銘打っている。
最後の挨拶では川上乙二郎の名前まで出して挨拶していた。
主演は影山伯爵夫人朝子にエース水谷八重子、女中頭草乃にはナンバー2の波野久利子。
影山伯爵に歌舞伎から市川団十郎、清原栄之輔に西条輝彦等が友情出演。

時は明治19年天長節(11月3日)。今宵は鹿鳴館で大夜会が催される。
第一、第二部は影山伯爵邸内潺湲亭(せんかんてい)。
伯爵夫人の登場で始まり、次第に本日の夜会に過激派で一徹な清原久雄等が乗り込む計画があることが明かされる。そしてその久雄に大徳寺公爵娘顕子が恋している。
若い二人を助けようと、朝子は久雄を説得するが、この場面で実は久雄は朝子の実の子であることが明かされる。そう、影山に嫁ぐまえ、清原栄之輔との間にできた子・・・・。
第三部、第四部の舞台は鹿鳴館大舞踏場。
しかし鹿鳴館乱入事件を計画したのは、実は予想もつかぬ人物であった。その人物の嫉妬に朝子、若い二人の思い、葛藤が入り乱れて、舞台は大いに盛り上がってゆく・・・・。
台詞はほぼ三島由紀夫の台本どおりのようだ。昔読んだことがあったからわかっていた。
しかし台本で読むのとこのような華やかな舞台で役者が演じる様を見るのは大違い。それなりにわかったような気がし、感動する。その意味では楽しかった。

当時日本は、明治の初めに外国から押しつけられた不平等条約に苦しんでいた。
その改正を実現するために欧米人たちに日本文化の水準を見せつけ、日本を見直させようと、この芝居では影山伯爵にあたるらしい井上馨等によって、16年に、鹿鳴館が設立されたのである。
場所は日比谷公園の東、帝国ホテルに隣接する大和生命ビルのあるところ。
設計は、後に旧古川邸やニコライ堂を設計したイギリス人建築家ジョサイア・コンドル。
もっとも正門は純和風、中は「フランス古典主義様式をベースに、オリエンタル風味の装飾がさまざまに折衷された、インド風な趣の洋館」(*)とか。
ついでながらこの芝居の冒頭シーンで貴婦人たちが望遠鏡を片手に眺めているのは日比谷練兵場(現在の日比谷公園あたり)の観兵式である。
しかしダンスになれぬ洋装、特に動員され出席した貴婦人たちが非常に苦労したことは、想像に堅くない。この芝居では朝子になっている井上武子は、外国判事中井弘と結婚したが離別、井上と再婚し、明治9年には欧州視察に同行し、英語、フランス語に堪能な人物である。その彼女ですら洋装で、夜会に出席することを非常に嫌がっていた。
努力したにもかかわらず、西洋人は鹿鳴館を散々軽蔑していた。ダンスは「教え込まれたもので、少しも自発性がない、自動人形のようだ。」、建物は「われわれの国のどこかの温泉町の娯楽場(カジノ)に似ている。」(*)などである。

しかしこの歳、夜会の少し前10月24日に紀州沖でノルマントン号という船が沈んだ。
ボートで脱出したイギリス人、ドイツ人など白人はほとんど助かり、乗客の日本人25人は全員死亡した。避難誘導をしなかった、人種差別だと、世論が沸騰していた。(不平等条約にもとづく治外法権の壁に拒まれイギリス人全員が無罪となった。その後船長のみ禁錮3ヶ月となったが到底日本人の納得行く判決ではなかった。)
そんなこともあって、婦人たちも張り切らざるをえなかったのかもしれない。
この鹿鳴館時代は20年頃には終わった。条約改正の成果が一向に上がらなかったうえ、舞踏に熱中している高官たちへの批判が噴出し、とうとう井上外相は辞職に追い込まれてしまう。懸案の不平等条約のうち、治外法権撤廃は日清戦争の始まる1894年、関税自主権を盛り込んだ完全達成は日露戦争が終わり国際的地位が高まった1911年を待たなければならなかった。

最後に影山がいう台詞が印象的。
「ごらん、よい歳をした連中が、腹の中で莫迦莫迦しさを噛みしめながらだんだん踊ってこちらにやって来る。鹿鳴館、こういう欺瞞が日本人をだんだん賢くしてゆくんだからな。」
三島は、鹿鳴館時代を終戦後の日本と似ているとしながら、あの時代は「新興国家のエネルギーと古い封建的矜持を二つながら備えていた。」としている。
ともかくも、西洋人に莫迦にされながら日本人が試行錯誤したその試みであった。そしてまた国家は、一方では強くなければ世界が認めぬ、という事実を教える。

(参考)三島由紀夫:「鹿鳴館」(新潮文庫)、近藤富枝:「鹿鳴館貴婦人考」、(*)田中聡:「地図から消えた東京遺産」(祥伝社)

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