687「昔の地図が見られます」(8月11日(月)晴れ)

「昭和22年と38年の地図が見られますよ。」と店子のA君に出し抜けに言われた。
彼は三郷市から2年位前に移ってきた。多分45歳くらいだろうか、独身で港区にある会社に勤めているとのことだ。
アパートの人と余り話す機会もないが、彼の場合、太り気味で人懐っこく、コインランドリーで洗濯をしてきた帰りによく逢う。先日は、荻窪の喫茶店で偶然一緒になり、一時話し込んだ。いづれ移り住むところを探しているらしく、多摩川の上流あたり興味がある、と言っていた。
彼に言われたとおり、Gooの地図の項目で場所を指定する。現在の地図が表示されるが、昭和22年と38年のクリックができるようになっており、そこで選択できる。
さらにこのシステムには重ね合わせ機能がついているから、昭和22年の地図に現在の主なポイントを重ね合わせることができる。
「この辺は全部畑だったんですねえ。」何、そういう三郷なんかまだまだ田舎じゃないか。
私は30年くらい前、都市ガスの普及の仕事をしていたが三郷も担当区域だった。
田圃ばかりが目立つエリアにも公団ができ、武蔵野線の発着駅がでて都市化の波が押し寄せた。駅前にスーパーができたあたりまで知っている。

ところで、私たち一家が今の場所に引っ越してきたのは昭和22年4月である。その頃はこちらも全部畑だった。畑の中にぽつんぽつんと家が立ち、目立った施設は観泉寺と井草八幡くらいだった。二区画先に同じ歳くらいの子供が住んでいて、朝ときどき声をかけた。「遊びましょ!」すると向こうの子も窓から首を出していて会話が成立する。
父の購入した私たちの土地も畑だった。父は後に一級建築士になったくらいだから土地の購入はなかなかうまかった。高台で水の出ないこと、日当たりのいいことなどをチェックしていた。そこにトントン葺きの8畳、4畳半、台所のちいさな家を建てた。トントン葺き・・・今の人は知らないだろうけれど、薄板を矧ぎ合わせたものである。火事になれば一発でアウトだからずいぶん火の元には気をつかったものである。
20年位前まで、この辺でも焚き火が自由であった。父の指示で庭に穴を掘りそこでいろいろなものを燃したものである。その最中に連翹の木についたスズメバチの巣にぶつかり、さされてワンワンないたことがある。焚き火の火の粉がトントン葺きの屋根に落ち係り、それが元で、夜中に出火したなどという話も聞いたことがある。

とにかく食べるものを確保しなければならない、おふくろはなかなかまじめだったから庭中畑にした。最初は陸稲まで作っていた。作り方など分かるわけはないから近所の農家に聞いて回ったようだ。人糞を混ぜて堆肥を作ると作物によいのだそうだ。「あれだけはなんとしてもいやだった。」と後年語っていた。道路にも作物を植えていた。しかしあるとき区役所から派遣された作業員が来て一気にならしてしまった。家の周りにはトマトだのインゲンなど植えた。私の仕事は母親と一緒に朝カナブンをとることだった。金属の容器にカナブンを集め、ふたをしたまま火にかけるとブンブンブンと騒いだまますぐに絶命する。
ここに来た日のことを子供心に覚えている。疎開先の信州の村からやってきて夕方についた。荻窪から歩いてきた。そのころはバスもなかった。都電が走っていた記憶がある。家にはまだ畳がなかった。板の間で父がワッフルを作ってくれたのを覚えている。
お袋がなくなってもう17年になる。なくなった後、ここに引っ越してくる前後の日記が見つかった。それを私はワープロに打ち。今でも取ってある。

父はこの土地を買うときに「もう、日本はオシマイだ。これからは自給自足で生きてゆくより仕方がない。」そして家ができ母が畑を始めると「もっと土地があれば作るものを増やせる」と考え、借金をしてまでして土地を買いました。
比較的広い土地を確保したことが、戦後の日本の復興と共に大成功であったことは言をまたぬ。私が社会人になってしばらくして、父は勤めていた東京都をやめた。しかし年金だけでは足りないと相談を受け、そのころ中小企業診断士の資格テストなどに興味を持っていた私はアパートを経営したら、と考えた。色々探し回り、Sハウスに相談したところ「建築費用は貸しますよ。お客も10年間つけますよ。」というので決めた。もうその頃には家庭の中で畑をするなんてことは忘れられていた。今から思えばみな懐かしいことばかりである。

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