学校で習った中国史は、近世に重点が置かれたごく表面的なものであったように思う。少しで中国史を楽しんでみようと、この本を読むことにした。最近、三国志は、いろいろな人が訳しており、中には漫画まであるようだが、日本ではこの本あたりが出発点のようだ。全部で8巻、最近視力が劣えたように感じる私にとって、なかなか読み出があった。
実は「三国志」といえば、本当は中国西晋代の人、陳寿(233-297)により、西暦280-290年頃に編纂された紀伝体の歴史書である。三国時代の歴史を扱う歴史書としては唯一二十四史の一つに数えられている。しかし日本で「三国志」と通常呼ばれているものは、元末あるいは明初に、羅貫中によって書かれた小説である。すでにあった荒唐無稽な話や歴史的矛盾を整理し、高い物語性・史書への精通に裏打ちされた逸話の巧みな選択と縁起で白話とはいいながら洗練された文章で人気を博した。この書は、これをもとに、さらに清朝になって毛宗崗が序文を書き、広く流布した「毛本」といわれる「三国志演義」を訳したものである。
毛沢東もこの小説を愛読したといわれる。共産軍の戦闘に役立てたのであろうか。
時代は2世紀末、後漢が黄巾の乱(184)などで衰えを見せ、換わって所謂魏、呉、蜀の三国鼎立時代を迎え、それが西晋の太祖司馬炎に統合(280)されるまでを描く。
黄巾の乱が縁で、漢室の流れを組む劉備玄徳は、関羽、張飛と桃園に集い、供物を整え、再拝して誓いの言葉を述べる。「三人は、兄弟の契りを結び、心を一つにして力をあわせ、苦難にあい、危険にのぞむものを救けて、上は国家の恩に報い、下は民草をやすらかにしたい。」と。
一方で漢室の宮中で縦に振舞った董卓が殺された後、献帝は洛陽に戻り、漢室を救えるのは山東の曹操以外にないと招聘した。彼は20万の兵を率いて上洛し、やがて都を許都に移し、権力をことごとくわが手におさめてしまった。
この間、華北の袁昭と対立を深めるが、曹操は官渡の戦いで勝利し、勢力を逆転させる。202年に袁昭は他界し、子達はたがいに鬩ぎあい、袁氏一族は滅亡への道をたどる。
劉備玄徳は、官渡の戦いで袁氏側についていたが、曹操に軍を差し向けられ、劉表のもとに身を寄せた。危機であったが、世の乱れを憂える心情と「三顧の礼」を持って、諸葛亮を参謀に迎える。諸葛亮は彼に曹操・孫権と対抗するため天下三分の計を説く。
次第に勢力を増す、孫権と劉備率いる呉・蜀連合軍に、曹操自らが先頭に立って討伐に向かう。圧倒的に有利と思われたが、諸葛亮の作戦で、連合軍は折から吹き出した風に乗じ、火攻めにし、曹操の水軍を焼き払う。敗走した曹操は、関羽の義によってようやく虎口を脱することができた。これが赤壁の戦いで、これにより三国鼎立の状況を迎える。
曹操は、漢中を攻め取り、後漢帝国内の一藩国という形で魏を建国するが、奇策を駆使する諸葛亮の前に敗色濃厚、ついに華北に撤退、失意のうちに没する。後をついだ曹丕は自立して後漢をついに滅ぼす。一方劉備は、勢力を増し、家臣等の勧めもあって、蜀漢を建国し帝位につく。これを知り、孫権も曹丕に接近し、形だけ臣下の礼をとって呉王に封ぜられる。劉備は、親征を行い、関羽を討った呉を討とうとするが、夷陵で陸遜の火計の策にはまり大敗、223年に子の後見など後を諸葛亮に依頼して他界する。
その後、劉禅が国を維持し、諸葛亮が助け、雲南を平定し、中原をうかがうまでになるが、戦況ははかばかしくない。234年に魏をせめ、諸葛亮は、五丈原で魏の参謀司馬懿(仲達)と長期にわたって対陣するが、病に係りついに自分の亡き後を細かく指示して没する。それを知った仲達は進軍するが、車に諸葛亮の木像が端座しているのをみると仰天して逃げ出す。
魏、呉、蜀の英雄たちがみな他界し、二代目以降の世の中となるが活力が乏しい。蜀では姜偉・鍾会等の奮戦もむなしく、劉禅は、宦官黄皓等の専横を許し、酒色におぼれる日々を送っていた。また呉では孫権の六男孫休に続き、孫皓が擁立されたが、こちらも政治は重臣たちに任せきりになっていた。一方魏では、司馬懿の息子司馬昭が権力を得て総理大臣に当たる相国・晋公に任ぜられる。ついに263年蜀漢を滅ぼし、264年晋王となる。しかし翌年中風のために56歳で逝去。後を次いだ司馬炎は、魏をも滅ぼし新王朝「晋」を開祖。ついで280年に呉をせめて下し、文字通り三国統一を成し遂げるのである。
勧善懲悪を理念とする英雄たちの物語。玄徳、関羽、張飛を主人公とし、これに曹操、諸葛亮がからむ前半がことに面白い。赤壁の戦いと悲壮感ただよう「秋風五丈原」の一節はハイライトであろうか。妖術に近いものまで使う諸葛亮の変幻自在の活躍はなんといっても面白く感じられた。英雄たちの死の後の物語はやや歴史的事実の羅列に終わった感じがするようにも思われる。また「三顧の礼」「泣いて馬謖を切る」「死せる孔明、いける仲達を走らす」など日常我々がよく使う諺の由来等も多くうかがい知ることができる。
付 三国志年表
184 黄巾の乱おこる
189 袁昭、宦官を大殺戮す
190 董卓、献帝を擁して長安に拠る
192 董卓殺さる
196 曹操、献帝を洛陽に迎え次いで許に遷る
202 袁昭死去
208 赤壁の戦、劉備・孫権、曹操を破り、三分の形勢となる。
211 劉備、蜀地に拠る
220 魏の曹操没す、曹丕自立して後漢滅亡
魏、九品中正の法を定む
221 劉備、帝位につく
222 呉の孫権、黄武と建元、天下を三分す。
225 諸葛亮、益州(雲南)を制す
234 諸葛亮没す
238 魏、遼東の公孫氏を滅ぼして楽浪、帯方二郡をおさむ
244 魏の毋丘倹、高句麗を討つ
263 蜀漢、魏に滅ぼさる
265 魏滅びて、司馬炎晋建国す
280 晋、呉を滅ぼして天下を統一
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読者から次のようなメールをいただきました。
1)当時の魏とか蜀の人口はどのくらい居たのでしょうか。晋が全部を統一したときに人口は全土で1600万人と言ってますから、魏が大国だとしても1000万は居なかったのでしょう。その中から、どの程度動員できたのでしょうか。とても100万なんて大軍は組織できないはずですよね。
大体、天安門に10万人も集まったらトイレとかの問題もでますし、軍隊なら食料武器の手配もあるでしょう。
実際はどの程度の集団同士の戦争だったのでしょうかね。
2)生きているのか、死んでいるのかわからない金正日におびえたかヒルズは交渉でめちゃくちゃに譲歩しました。これを産経新聞では「死せる正日、生けるヒルズを走らす」と書いていました。けだし名言ですね。
土井晩翠の天地有情では 司馬仲達は結構な名将で
「彼、中原の一奇才、韜略深く密ながら----」といっています。
今回は両方とも名将で無いところがおもしろいですね。
日本はついてゆくのでしょうか。こんな川柳があります。
ふまれても ついてゆきます 下駄の雪
我が国はげたのゆきでしょうか。