709「漢詩もどきを作る」(11月11日(火)曇り)

11月8日に高等学校同期による「いちに歩く会」というものが開かれた。あいにく小雨交じりの肌寒い天候の中、40人余りが市ヶ谷駅に集合し、神田川沿いに歩き、両国橋に出て隅田川沿いを南下、永代橋手前の日本橋川沿いの道を戻って都心に向かった。東京駅近くにあるおでんで有名な「一平」で昼食をとった。その際余興にと、皆に「隅田川」という題で簡単な感想文でも、和歌でも、俳句でも書くようにと求められた。私はそのまとめをやったのだけれど、なかなか面白い作品が多い。しかし他人の作品を公にするわけには行かぬから、自分の作品を公開する。もちろんその場でなく、事前に考えたから、ついでに薀蓄も書いてみたい。

参加者の一人にいつも漢詩を書いてくる男がいた。私はその能力を羨ましい、と思い、いつかあれに似たものを自分でも書けないものか、と考えた。
*題隅田川秋景
秋雁再来 大川辺・・・・・秋になって鴈がまたこの大川(隅田川)あたりにもやってきた。
列行白髪 昨紅顔・・・・・列を成してゆく男たちは白髪、かっては紅顔の少年だった
昔日早漏 今蹌踉・・・・・昔は早漏、困ったが、今は蹌踉、よろよろと歩く
頑張待君 酒御田・・・・・頑張れ!おでんと酒が君を待っているぞ! 
友人にみせたところ、「(漢詩は)小生もいくつかつくりましたが、専門家から言わせると平仄がなっていないそうです。脚韻と起承転結がしっかりしていれば、日本人の作品としてはそれで勘弁してもらわないといけませんね。そういう意味ではよく出来ていると思います。」というような批評をもらった。平仄はまったく考えていないわけだからあっているわけがない。そこでこのエッセイのタイトルも「もどき」を入れた・・・・・。

しかしそれでも苦労は多い。まず漢詩というものについてWikipedia「漢詩作法入門講座」等で要点を抑えておく。ただし返り点などはある程度理解している前提で話を進める。
一句の字数が五文字なら五言詩、七文字なら七言詩、四文字なら四言詩という。
絶句は四句から構成される。五言絶句であれば四句二十字、七言絶句であれば四句二十八字になる。 また、律詩は八句から構成されるものをいう。ただし例外もあるようだ。古体詩と呼ばれる形式で、この中には四句のものもあれば五十句以上の長いものもある。
また二字の熟語(これを詩語という)が基本となり、 「二字と一字」、「二字と二字」のように組合わされて構成されている。 そのため、漢詩を読む場合の第一歩としては、七言ならば「二字と二字と三字」、 五言ならば「二字と三字」という具合に区切って読むことが原則。
さらに私の作った七言絶句に限って言うと、平仄は無視するとしても
・ 第一句、第二句、第四句が韻を踏んでいること
・ 4句で起承転結をなしていること。

例をあげる。朱子の「偶成」という有名な絶句。
少年易老学難成 一寸光陰不可軽 未覚池塘春草夢 階前梧葉已秋声
Wikipediaによればこの絶句はあの朱子学の太祖朱子の作品ではない、意味も普通我々が考えているような結構なものではなく滑稽詩である、という説もあるとのこと。しかしここではそのような議論をおいて絶句としての視点から見ると
・成、軽、声が韻を踏んでいる
・「少年易老学難成 ・・・・」では「少年」・「易老」・「学難成」、「一寸」・「光陰」・「不可軽」のように分けられ、さらに3字のグループは二字と1字の組み合わせになる。「学」・「難成」、「不可」・「軽」のように分かれる。
・起承転結はそのように読めないこともない。
他人の漢詩を参考にすることは正しいようで、他にもいくつか参考にし、今岩波文庫の「唐詩選」を読んでいる。読みながら何より驚くのは昔の漢字文化の広さ、具体的に言えば特に動詞の豊富さである。こんなものまで動詞として使われており、それが解らないと、日本流に読めぬことが多い。しかしこの歳になって新しい世界に入ってゆくことはなかなか楽しい。ちょっとはまりそうな気がしてきている。気に入った日本人の漢詩をもう一つあげておこう。

不識庵機山を撃つの図に題す     頼山陽
鞭声粛粛夜過河 暁見千兵擁大牙 遺恨十年磨一剣 流星光底逸長蛇
名作に較べると、私の作品はやっぱりひどい!言うことに品がないし、それに漢詩に御田なんていいんだろうか。やっぱり「もどき」レベル以下だ!
最後に下見に行ったときの記録を私たちのコースを知りたい人のためにつけておく。

(参考)「いちに歩こう会下見で神田川、隅田川を行く」(10月8日(水)曇り)

世界同時不況を恐れてか、株式市場は下げが止まらない。どんどん財産が目減りし、今日もどうなるのだろう。今にも雨の降りそうな天気で、傘をバッグにしのばせる。
市ヶ谷駅に9時過ぎ、もう幹事のA君が来ていた。今日は11月に行われる「いちに歩こう会」の下見である。この天気、何人参加するのやら、と思っていたが、結局13人になる。皆、暇?いや、旧友の懐かしい年頃。
「実はね、きみには言わなかったけれど僕は、脳梗塞で倒れたのだよ。」とC君。
其のニュースは、もうとっくに仲間内で知れ渡っていたから知っていた。幸いに経過は良好のようだが、「アルコールはやめろ。」といわれているそうだ。
「これから素粒子の勉強をしなければならない。」上野の国立博物館でボランテイア説明員をやっている彼は、いろいろな質問に出くわすのだそうだ。
「何しろ3人も一緒にノーベル賞だもの。」「もらったお金はどう分けるの。」
話しているうちに飯田橋を過ぎ、早くも小石川橋。ここで神田川と日本橋川が分かれる。この辺は市兵衛河岸というのだそうだ。

神田上水の掛碑跡の碑があった。復習すると(Wikipedia)
「神田上水は、井の頭池の湧水を水源とする江戸時代初期に作られた日本最古の都市水道です。文京区関口に堰を設けて上水を取り入れ、小日向台下の裾を通り小石川後楽園の中を抜け水道橋の東側で神田川の掛樋でわたし、神田日本橋方面に給水されていました。」
この向こうに東京都水道歴史館があり、昔、尋ねたことがある。
順天堂大学と東京医科歯科大学。其の向こうが湯島聖堂。誰かが言う。
「トイレはいざとなったら病院にみんなで行けばいい。尿毒症の急患です!」
昌平橋でJRを渡り、秋葉原の端を通り抜け、昭和通をぬけると佐久間河岸というところ。防災船着場になっており、一服した。浅草橋を過ぎ両国橋近くが柳橋と呼ばれるところ。柳橋芸者の代わりに、屋形船がたくさん川に浮かんでいる。花火時に利用したいものだが、大分込みそう。それに「予約をしても其のとき雨だったらどうするの。」「釣った魚を天麩羅にしてくれるの。」「食べられんだろうが・・・・」「隅田川で取ったばかりのマグロの刺身を食わせてくれる・・・」「まさか!」小松家という看板が目立った。

いよいよ隅田川に出て両国橋手前で川沿いの道を歩き始める。この川べりもいつの間にかずいぶん整備されたものだ。しかしところどころにゼラニウムやはまなすが咲いてはいたけれど、昔の面影はない。浜町河岸に浜町公園、この辺も昔を思えば風情はあるのだが。
やがて新大橋を越えると、川向こうに芭蕉稲荷と芭蕉記念館が見える。其の文字がよく見えぬ。目が悪くなったかと心配する。1680年、芭蕉は江戸日本橋から、深川の草庵に移り住み、89年に曾良を伴い、奥の細道の旅に出かけた。「月日は百代の過客にして、行きかふ人もまた旅人なり」皆さん、思い出しますか?
やがて清洲橋。関東大震災の復興事業として、永代橋と共に計画された橋。今では勝鬨橋も加えて、みな重要文化財に指定されている。
墨田大橋も越え、永代橋目前にIBMビル、先ほどの日本橋川の出口。ここで隅田川を離れる。
外人も含めたわれわれのようなオノボリサンが写真を撮っている。今日はいいだろう、ということになったが、本番ではポイントになるかも知れぬ。

すぐに高尾稲荷。江戸の昔、高尾太夫という娼妓が、伊達の殿様に寵愛され、大金を積んで身請けされることになった。しかし彼女には言い交わした中の男がいたため断った。怒りをかって隅田川の三又(現在の中洲)辺りの楼船上で吊り切りにされ、川に捨てられた。その死体があがり、居合わせた僧たちが供養のため庵を建てたことがはじめとされる。
三井の倉庫群を抜けると東京証券取引所。今日は一体どういうことになった、と見たいところだが、さすがに本家、株価を店頭にしめすような野暮なことはしていない。
もう少し向こうで左に曲がるらしいが、A君はショートカットをして昔の東急跡地に立つCOEDOビルを突き抜けて中央通りへ。東京駅周辺もずいぶん変わったものだ。COEDOというのはCORE OF EDOである、と彼が教えてくれた。
(以下略)

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