高等学校同期の13人で陣馬山中腹の旅館に泊まって碁打ちを楽しんだ。楽しんだ、というのは言い方の問題で、友達同士の語らいは別にして、自分の陣地と思って囲ってある石がいつのまにか取られてしまう悔しさは楽しんだというべきか?
高等遊民という言葉をご存知だろうか。Wikipediaを少し長めに引用すると
「明治時代から昭和初期の近代戦前期にかけて、帝国大学等の高等教育機関で卒業しながらも、経済的に不自由がないために官吏や会社員などになって労働に従事せず、読書などをすごしている人のこと。夏目漱石の造語であり、作中しばしば用いられた。」
「これらの人々は、なんら生産的な活動をせず、日々を雅やか過ごしたり、学問の延長として己の興味のある分野(趣味の活動を含む)を追い求めていた。夏目漱石の「それから」の長井代助及び「こころ」の先生、川端康成の「雪国」の主人公のように、しばしば文学のテーマとして取り上げられた。」
「ニートの定義とも重複するが、現代の日本ではニートが社会から疎外されてしまい、労働意欲だけでなく生活意欲も喪失してしまった存在と見られがちなのに対し、高等遊民にはそのようなニュアンスはない。これは当時の高等教育の大衆とは無縁の、いわば上流社会の子弟のみに許されていたものであったことにも関係しよう。」
現代では高等遊民の定義に当てはまる若者は少ないようだ。
貧富の差が少なくなり、何もせずに食っていけるほどの余裕のある家庭は少ない。大学を出て働くべきなのだが、職がなかったり、プライドが邪魔をして仕事に就かなかったりして、結局はニートやあのフリーターというものになるものが多い。高等遊民の定義には当てはまらぬ。しかし私は、最近現代の高等遊民を発見したように思う。我々自身である。
貧富の差がなくなったということは、かなり多くの人がリタイヤし、息子も娘も独立し、することがなる。それでいて長いこと働いたおかげで蓄財もできている。アメリカ式の民主主義の導入のせいで、子達は自分たちの老後の面倒を余り見てくれそうにない。そうなれば何も財産を子達に残すことはない。栄養がいいから、メタボが心配だが、明治の老人のように老いさらばえることがない。自分たちも楽しもう。
しかもこの楽しみには時限がある。何時死が訪れるかもしれぬ、そうでなくてもひっくり返って半身不随にでもなれば病院行きか老人ホーム、それまで20年あるか、30年あるか大いに楽しまなくては損と考えるのである。
親の遺産があるものがいる。不動産収入があるものがいる。それがなくても多くは年金がある。「つつましい年金生活で・・・・」というのは言いようである。確かにキャビアは食えぬかも知れぬが鯵のひらきなら日々欠かさず食えぬこともない。サラリーマンのころ頑張っていいただけに自由になった時間をどう使おう。趣味に旅行に、少し格好良くボランテイア活動に・・・・いずれにしたって見ようによっては優雅なもの。
さてこの新高等遊民、この歳になって思うが、心を許せる友人というのはなかなかできぬ。それだけに欲得抜きで話し合える学校時代の友人というのはうれしい。
このエッセイ、本来碁の会に行ったのだから、碁のことを書かねばならぬ。しかし負けてばかり、書く気がせぬからこんな薀蓄をたれている・・・・。
誰が決めたか碁のハンデイを数字で決めている。12の差で一子になるらしい。私は17、中でも特段に低い。大抵は100くらいである。中には150を越える者もいる。150の人間と私が勝負するとき133の差があるから9目置いて、さらに25もの石を最初にもらうことになる。だからはじめは、黒石ばかりである。しかし相手も負けては男が廃る、と考えるのか苦しいと見ると必死に打ってくる。教科書にないような手でこちらをごまかしにかかる。「なんだか、騙したみたいで悪いなあ」「そこは死んでいたんだが、君が助けてくれた。おっと、待ったはなしだよ。」などと言いながら石をごっそり持ってゆく。最後に数えるとまた負けている。
私が碁が強くならぬわけは、自分自身分かっている。新高等遊民はようするに何をするのも自由だから、己の内部において碁がどの程度の地位を占めるかによって割く時間が決まる。ラジオ体操、読書、漢字の勉強、スポーツクラブ、パソコンのエッセイ、そのどれに較べて碁の序列は私の場合には低い。若いときにやったベースもないからこの結果・・・・しかし友と語らうのは好きだから、負けるのも楽しい、と割り切って出席するが、なかなか修行が足りぬ。途中で碁盤をひっくり返したくなる。反省会。「もっと阿笠君レベルの人を探さなければ会の参加者が増えない。」などと、強い幹事たちは真顔で議論している・・・・・くそっ!
寄同期囲碁大会 旻天柿実陣馬山 被與我黒石覆盤 一眼不成大石死 奮起再戦又散々
註 ご意見をお待ちしています。
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読者から次のメールを頂きました。
1)明治時代にはこんな言葉があった
「囲碁は貴顕紳士のたのしみ、将棋は車夫馬丁のなぐさみ」
将棋好きが聞いたらおこるような表現である。
高等遊民なるものが存在するようなときはそういうものだったのかもしれない。
ただ、現在も日本棋院あるいは将棋連盟のごたごた、内紛を
聞くに付け、古きよき時代が懐かしくなる。
しかし、さらに古い時代は家元制度の嫌な面がでた歴史もあるようだ。
2)ゴルフの石川選手が最年少で1億円達成したとのこと。
ゴルフや野球はえらく金が取れますね。
囲碁なんか名人を含めて7大タイトルすべてを獲得しても
賞金は2億円にはなりません。かわいそうなものですよ。
囲碁将棋の基本的な欠陥は次のようなことですね。
これは一口に言って結局名人クラスが非情にすばらしい手を打っても
その手が理解できる見物人がいないことですね。
だからショーとしての価値が無いのですね。
古来から語り継がれている古今の妙手である「耳赤の一手」
http://honinbo.shusaku.in/mimiaka.html
もなぜそれが妙手であるか、本当に理解できるアマチュアは
日本に1000人といないのではないかと思われます。
かく言う小生も長年の修行により、プロに2子のハンディで打てる
位の棋力になっていますが、それでもこの妙手を心底理解できて
いるとはいえません。
才能に恵まれるなら、絶対野球かゴルフにすべきですね。
ボクシングや相撲じゃだめですよね。
まして、囲碁将棋、チェス、トランプ、百人一首なんて最低ですね。
室内遊戯の類なら、株の取引の才能が最高ですね。
3)漢詩について、貴兄からお便りをいただいた直後小生も囲碁についての詩を作った。
漢詩もどきである。負けるときと勝つときの情景を詠みました。
敗局
遠く上辺を望めば敵勢多し
苦吟時を刻んでしばらく逡巡す
打ち込み崩れてこの局終わる
十有数子盤上に斃る
勝局
眼下に中原をみればわが勢盛んなり
刻々力を増して敵よせつけず
金城鉄壁大局を制す
熟慮数分敵投了す
このように作りました。しかし例によって平仄がなっていません。
それでこれをきちんとした漢詩に作ることにして、中国人の留学生に作り直しを頼みました。
その結果がこれです。
敗局
台眼対面旌旗多
苦吟片刻慢斟酌
突入敵陣反被破
空留数子在局中
勝局
眼下中原我勢強
再増兵将莫譲来
銅城鉄壁大局定
沈思苦慮終于降
随分と漢詩らしくなっているでしょう。小生が金というのに銅になって居るのが気になりますが、この全自動翻訳機はいいでしょう。いいところに気がついたでしょう。
・・・・・そこで湖南は次のようにメールに答えました。
中国人さんの漢詩はさすがにうまいですね。
でも韻は余り考えなくていいのですか。
金が銅になっているのは銅牆鉄壁という四字熟語があるのですからいいのだと思いますが。
するとお答えのメール
韻はあまり重要視しない、中国語で読んだときにリズムがいいのがよいなどと言っています。
それはダメだ、平仄をきちんとしたものが欲しいと再度注文していますが、なかなか出てきません。中国人でも平仄は難しいのでしょうね。
小生の「金」を「銅」に変えるのは、何か含むところあるのか
せめて「銀」にしろともいっておきました。