734「貫一・お宮と熱海旅行」(2月5日(木)晴れ、6日(金)晴れ)

早くから旅行を予定しておいて、当日天気がよく、風もなく、温暖となれば籤を引き当てた気分でうれしくなる。今日は、一泊で熱海旅行。来宮でおりる。熱海と来宮の間はわずかに1.2キロ。来宮駅は、昭和10年に丹那トンネル完成直後に、谷を埋め立てて作られた。この2年後に熱海が市制をひき、発展してゆく。
坂を上って7、8分で熱海の梅林。園内には売店が軒を連ね、高みに行けば韓式庭園、足湯、さらには人工の滝があって、その後ろから咲き誇る梅が見られるという趣向。

「金色夜叉」は明治30年から35年にわたって断続的に読売新聞に発表された。
「熱海は東京に比して温きこと十余度なれば、今日漸く一月の半ばを過ぎぬるに、梅林の花は二千本の梢に咲き乱れて、日に映ろへる光は玲瓏として人の面を照し、路を埋むる幾斗の清香は凝りて掬ぶに堪えたり。梅の外には一木無く、処処の乱石の横はるのみにて、地は坦に氈を敷きたるやうの芝生の園の中を、玉の砕けて迸り、練の裂けて翻る如き早瀬の流ありて横さまに貫けり」(金色夜叉、新潮文庫)
この梅園がそれかと、Wikipediaで調べると
「熱海梅園は、明治19年に開園したという、歴史のある梅園です。樹齢百年超える梅の古木を含め、早咲き・中咲き・遅咲きの梅が約730本。早いものでは12月下旬に咲き始めるとか。日本一開花が早い梅園というのがうたい文句です。」
梅は五分咲きというところ、ところどころに咲く水仙も美しくそれなりに楽しめた。

金色夜叉に戻る。富山唯継と宮、それに貫一が話す場面。
「「さあ、もう帰りませう。おまえさんもお草臥れだらうから、お湯にでも入って、さうしてまだ御午餐前なのでせう。」「いえ、汽車の中で鮨を食べました。」」(金色夜叉)
宮も貫一もどうやって熱海にきたのだろう。これもWikipediaで調べると
明治20年 新橋―国府津間に鉄道が開通する
明治21年 国府津―小田原―湯元間に電車が開通する
明治29年 小田原―熱海間に人車鉄道が開通する。
明治39年 小田原熱海の人車鉄道が軽便鉄道となる。

駅前にでて、宿を探していると丸っこい60すぎのおばさんに声をかけられた。「ホテル貫一です。」「それなら私も家に帰るところだから一緒に行きましょう。」
「熱海は坂の多い小さな町です。この岡本ホテルのあたりは昔御用邸があった、子供心にずいぶん寒そうなところと感じた、」などと話している。ところどころに源泉の湧き出しているスポットがある。温泉卵くらいすぐ作れるそうだ。
ホテルは坂の中腹にあった。チェックインをすませて早咲きの桜と凝ったつくりの橋がムードを作りだす糸川沿いの遊歩道を歩いて海岸に。

「打霞たる空ながら、月の色の匂い滴せるやふにして、微白き海は縹渺として限を知らず、譬えば無邪気なる夢を敷けるに似たり、寄せては返す波の音も眠げに怠りて、吹来る風は人を酔はしめんとす。打連れてこの浜辺を逍遥せるは貫一と宮となりけり」(金色夜叉)
この後有名な熱海の海岸の散歩と相成るわけである。
しかし現在は海岸沿いはホテルが林立、海際は親水公園に人工の熱海サンビーチ。西の方を眺めればホテルニューアカオに後楽園という風情。しかも昼日中とあっては「人を酔わしむると言う風情」にはなかなか為れぬが、それでもお宮の松までの散歩を楽しむ。

「熱海の海岸散歩する貫一お宮の二人連れ、共に歩むも今日限り共に語るも今日限り・・・」
大正8年に地元の有志により「金色夜叉の碑」が建てられた。お宮の松も碑もその後移転したり枯れたりしたが、それでも人気スポット。みな次々に記念写真を撮っていた。前に立つとこの歌が流れてくるが、7年に後藤紫雲・宮島郁芳という二人の演歌師によって作られた。

ホテルには5時頃戻った。熱海のホテルは、不況と周辺地にお客を取られること等で、客を呼ぶことに必死のように見える。町を歩けば倒産したホテルも目立つ。5階の海側に面した2室を1室にした部屋で、十分に広く見晴らしがいい。夕食も値段の割りによく(一泊2食12850円)、従業員のサービスもいい。温泉としても熱海は、徳川時代から幕府に御汲湯を届けるなどして有名であった。湧出量も毎分1万6000リットル余りで草津、別府、箱根に次ぐ。もちろん源泉かけ流し。
翌日私たちは熱海よりもっと不況が深刻という初島まで船で行き散策、もどってモア美術館というコース。モア美術館からは熱海市内が一望できる。熱海は一泊旅行の意外なお勧めスポットかもしれない。なかなか楽しいひと時を過ごすことができた。

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