岡田英弘著。ちくま文庫。この本は、30年以上前に書かれた本らしいが、なかなか興味深かった。平易に書かれているが、歴史にそれほど詳しくない私は、それなりに苦労した。以下にwikipedeia などで不足を補いながら整理を試みる。
古代、書物は、かさばる木簡や高価な絹布にかかれた。後漢時代になって宦官の蔡倫が紙の作り方を発明したが、それでも高価だった。漢字は特異な表意文字であり。これを使いこなせる人は極端に少なかった。その結果書物は、政治勢力の中心でさえあった。
「三国志」は西晋の陳寿によって書かれた。65巻あり、「魏書」30巻の第30巻「烏丸・鮮卑・東夷伝」となっている。東夷伝では七つの民族を取り上げているが、その最後が倭人伝で、この項目だけを切り取って「魏志倭人伝」と呼んでいる。陳寿はもともと蜀の歴史家であったが、263年に滅びると張華を通じて、司馬氏に仕えることとなった。265年に、蜀が滅び、後に司馬炎が皇帝の位について西晋を立てた。
なぜそれまでなかった倭人の歴史が取り上げられたか。3世紀はじめ、長い間遼東を支配していた公孫淵は、呉の孫権とも通じて巧みな外交を見せていた。司馬炎の祖父、司馬懿(しばい)は、それまで蜀の諸葛亮に翻弄されていたが、238年にこの公孫淵を倒した。239年に呉の背後にあるらしい倭国の朝貢が行われた。これらの功績により、司馬懿は、曹爽と共に明帝の補佐役にのし上がり、国民的英雄となることが出来た。したがって「三国志」を書くにあたって、倭人伝を取りあげたのは当然である。
日本書紀は舎人親王(天武天皇)らの撰で720年に完成した歴史書で、神代から持統天皇の時代までを扱う。日本書紀が正当化しなければならなかったのは
@ 天武天皇の父親、舒明天皇の即位(629年)の正当化
A 兄の天智天皇の皇位継承化(668年)の正当化
B 壬申の乱により即位(673年)した天武天皇自身の正当化
そして@とAの間に、大化の改新(645年)、唐・新羅による百済の滅亡(660年)、白村江における日本の完全な敗北(663年)などが起こっている。
720年は、日本は著者のいう第五王家の世になる。それまでの歴史、第一から第四王家の歴史であり、思い切り創作したのではないか。著者は次のように考える。
@ 神武から十三代成務天皇にいたる第一王朝は、直径父子相続の理想に合わせて作り上げられたもので歴史的根拠は皆無。
A 第二王朝の仲哀天皇、神功皇后、応神天皇も実在の人物ではなく、むしろ神々で、君主らしい最古の人物は、難波に国都を建設した十七代仁徳天皇ではないか。
B 第三王朝の顕宗天皇から武烈天皇の間は存在が怪しい。
C 第四王朝は、第五王朝成立に関係の深い推古天皇、聖徳太子、山背大兄あたりは別として継体天皇を始祖とする全般についてはある程度信じられないか。
ところで中国の「宋書」東夷伝には、倭王武の持参した手紙が載っており、倭王たちが軍隊を率いて東西に征討を行なった、とある。これは第二王朝の仁徳天皇から五代がその中心だったのではないか、と考えられる。
これらをベースとして、日本の国家の成立を、列島内部の事情からだけでなく朝鮮半島や中国からの影響を考慮して説明する。かって中国は、今のEUのようであったと考えてよく、朝鮮や日本はその域外勢力ともいえるものであった。域外との貿易交渉窓口に中国は紀元前108年に楽浪郡を設置させ、各地区の酋長?に金印、銀印、銅印を授け、朝貢させた。「楽浪の海中に倭人あり」「分かれて百余国となる」とあるのは倭人の国として登録されている国の数。こうして小さな国に分かれていた日本に、華商が次々に来航するようになった。しかし王莽の反乱や黄巾の乱で中国国内が乱れたこと、後漢がしばらく朝貢を禁止したことから、しばらく交易が途絶えた。公孫淵、魏、晋の時代になって比較的安全が確保されるようになり、再び往来が活発になった。そして卑弥呼の朝貢が実現したと考えられる。
ところが中国側の東夷の内附や朝貢の記録が、291年を最後としてぱったり現れなくなる。これは窓口たる楽浪・帯方の滅亡し、中国内部が再び混乱に陥ったことによる。
空白の4世紀を経て、399年頃、倭国が百済のパートナーとなって侵入し、高句麗と対峙したらしい。広開土王碑に記録されており、第二王朝の前述の仁徳天皇から五代にほぼ対応する。このころ任那が存在したかどうかは別として倭が朝鮮にかなりの勢力を持っていたようだ。
仁徳天皇は、一方で難波の京を整備しながら、次第に内陸部に開発を進めていった。どのようにして王権を確立したかははっきりしないが、この辺が日本の誕生と言える。
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