T「私たちの育った家」(7月8日 晴れ)
ああ、わたしのいとしい、なつかしい、美しい桜の園!わたしの命、私の青春、私の幸せ・・・・さよなら・・・・、永久にさようなら!
・ ・・・・・チェーホフ「桜の園」
T工務店からの連絡で、とうとうこの木曜日から、母屋に解体業者が入ることになった。「遅らせましょうか。」ともいっていたが、1年以上前から考えていたこと、遅らせたってきりがない。「最初にちょっと見てほしいがかまわないよ。」と答えた。来年の1月にはあの跡に8室のアパートが完成する。
昭和20年たしか5月、横浜空襲で私たち一家は焼け出された。一時、親戚の下に身を寄せていた母と私と生まれたばかりの弟は、長野の大谷近くにある栗林村に疎開した。蚕室で、5歳の私には大きく見えたけれども、後年訪問してみたとき、それはせいぜい物置に毛の生えた程度のものだった。
秋になって、その庭の柿の木に柿がたくさんなった。しかし大家は「家は貸したが柿の木はうちのものだ。」と主張し、実を取るのを手伝った報酬に一籠もらっただけだった。「土地や家を借りるとはこんなに切ないこと、と感じた。」と父は後年語った。
そのせいか知らぬが、父は東京で懸命にがんばった。勤めていた会社を止め、設計事務所を開き、ブラジル大使館の建物を設計したという話だが、詳しくは知らない。そこで得た金で、今の場所に土地を買い、家を建てた。
22年4月に上京した。父が赤羽まで出迎えてくれたそうだが、よく覚えていない。荻窪駅からとことこ歩いてくると、畑の中にぽつんと一軒家が建っていたのを覚えている。「これがとうちゃんが建ててくださった私たちのおうちよ。」と母がはしゃいでいたことも覚えている。家にはまだ畳が敷かれてなかった。電熱器で父がワッフルを焼いてくれた。
ガールフレンドのAさん一家は実は戦前から今のところに住んでいた。「何だか全体真っ黒だった家。」と彼女は記憶しているそうだ。
父は建築設計をやっていたから、建物の耐久性についてずいぶん注意を払っていた。出来るだけコストを切り詰めた、といいながら全体にクレオソートを塗った。防食のためである。その結果、彼女の言う黒い家になったのである。床下に風が吹き込むようになっており、喚起は充分にとってあった。表の道路より少し高かったから、水はけも問題なかった。それらが効を奏し、今でもまったく問題ない。
まだ屋根はトントンぶきだった。家の前には棚がしつらえてあって、母は早速そこにかぼちゃを植えた。かぼちゃの花を持って遊ぶ弟の写真がいまでも残っている。母はまもなく家の周りも畑にした。そうしなければ食っていけない時代だった。
畳はまもなく入ったが、当初、家は小さな板敷きの台所と、4畳半と8畳間だけだった。やがて屋根はかわらになり、台所は拡張され、二つの部屋も改造された。私が中学生のときだったと思う。棚部分を廊下にし、父用の10畳洋間と小さな4畳間を作った。その4畳間が私の部屋になり、火鉢を囲んで夜遅くまで受験勉強に励んだことを覚えている。
昭和42年、私が結婚したとき、父は家の裏に私たちようの家を作ってくれた。しかし子供たちが出来ると、どうしても狭く感じられるようになった。そこで建て替えることにしたのだが、父には私たちの家に対する思い入れがあるらしく反対した。結局一部を移築して、母屋にくっつける、ということになった。こうして出来たのが玄関脇の風呂場とその向こうの小さな部屋である。
家には父の建築家としての工夫が随所に盛り込まれている。たとえば北側にとったお茶のにじり口のような床高の窓である。しゃれていてあれがあるおかげで風通しが実にいい。それからトップライトである。北側の台所は暗くなりがちだが、トップライトのおかげで外の光がはいり、いつも明るい。
そんな半世紀の歴史と思い入れのある家が今壊されることになった。論理ではわかる。いまどき2階もないあんなだだっ広い部屋を取っておく余裕はない。つぶしてアパートは正解だろう。しかしなんとなく淋しさが残る。
もっとも一番淋しいのはあの世の父かもしれない。冒頭の桜の園の一節は父の思いにふさわしいのかもしれない、などと不肖の息子は思いをめぐらせる・・・・。
U「母屋の解体」(7月12日 晴れ)
昨日の朝、T工務店が解体業者を連れてやってきた。部屋の中のチェック、工事の手順、ガス管や水道管の位置を確認するとすぐに雨戸や窓をはずし始めた。やがて回りに裸木の柱が立てられ、それに布が張られる。ゴミが四方に飛散するのを防ぐ目的だ。
夕方には廊下のガラス戸ばかりが光る妙にスカスカした家になってしまった。「明日は一気に壊しますから・・・。」そういって業者は帰っていった。
とても見ている気にはなれなかった。
今朝は、早くから解体業者は我が家の前に車を止めていた。ユンボを通過させるために、茶の間にあった畳が引き出され、無残にひっくり返され道路と敷地の間に敷かれた。
私は、家をでて荻窪から中央線に乗り高尾にむかった。びわ滝コースを逆に登る。うっそうと茂る木々、木漏れ日、コースに沿った川の水音、すがすがしく肺の中の空気が全部置き換えられるようだ。
台風一過、水かさは大いが、このコースで有名な沢を、石伝いに登ることができた。5年くらい前だったろうか、父を連れてこのコースを上から降りたことがある。目が悪かったから、後から「死ぬかと思った。」とぼやかれたことを覚えている。しかし思えばあれが父の最期の山のぼりとなったように思う。
頂上広場は、とろろそば屋などもあり、公園のようになっている。ベンチの腰掛けコンビニで買ってきたおにぎりを食っていると、小さな蟻が自分の体の10倍はありそうな虫の死骸を引いているのが見えた。ところがそれをまたべつの蟻が横取りしようとする。ほかの蟻は、こちらが投げ与えた菓子くずを運び始めた。
よくもまあ、ちょこまかと動き回るものだ。感心していると、今度はキジバトがどこからかとことこやってきた。ひょいひょいとくちばしを動かし蟻ごとみんな食ってしまった。生きて行くって厳しいねえ。
帰りはつり橋コースを行くことにした。つり橋を渡って少し行くと、蛇滝にゆく2号路の標識が見つかった。急ぐことはなしとそちらに向かう。うっそうと木々の茂る急な下り坂を下ると、やがて蛇滝、びわ滝と同様、滝に打たれて修行する人のための道場みたいになっている。ふもとに降りると、観光用の梅林と老人ホームらしいものがあり、裏高尾と呼ばれるあたりらしいことがわかった。
バスの便が悪いので歩き始めると、遠くに工事中の橋脚が見え、天狗の絵を中心に圏央道反対とかかれた大きな垂れ幕がかかっていた。
圏央道は、横須賀道路から成田まで都心から40-50キロの主要都市をぐるり環状的に結ぶ一大プロジェクトだ。ここ高尾の中腹には直径10メートルのトンネルを2本通す。これに対し自然破壊だ、といくつかの地元の環境団体が反対運動を行っている。これが出来れば確かに西多摩地域の交通体系は一変する。関越、常磐、東北などへのアクセスが格段に便利になり、成田にも2時間余りで行けるようになる。しかし排気ガスは問題ないか、地下水はなくならないか、景観はどうなる、どれをとっても心配事はつきず、反対する理由もわかる気がする。
高尾駅まで歩き、我が家には3時半ころついた。もう風呂場も玄関も子供時代を過ごした茶の間も8畳間もなくなり、瓦礫の山の上で大きなユンボが動いている。ねじ切られたようになった瓦屋根を境にわずかに洋間がまだ手をつけておらず、受験時代をすごした4畳間にはガラクタが積み上げられていた。
人間が生きてゆくために、あるいはより快適に過ごすために過去に対する感傷などにひたっているわけにはいかない、過去を否定しなければ新しい未来は開けない、そんなことは重々わかっているつもりなのだが・・・・。
夜寝床につくととおりを通るバイクの音がひどくうるさく聞こえる。家がなくなってその分音が通りやすくなっているのだろうか。
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