815「背広を新調する」(11月22日(日)晴れ)

私は鏡を向けられ、自分の姿をみて愕然とした。「歳をとった!」喉の辺りにしわが集中している。昔から喉が一番年取ったことを証明する、というがその通りだ。
私は店員にいうともなく呟く。「背広を作るなんて10年ぶりだ。」
普段は、ノーネクタイのおじさんスタイルで過ごしている。そのため会社を定年してから8年間、一度も作っていない。しかし1年に数回、背広を着てぴしりと決めてみたく感じる。
一方で心の中で思う。「背広を新調するのは今回で最後だろうなあ。」その割には店は「青山」、それも就職活動をする学生などを当て込んで行なうバーゲン中の商品。
しかし「背広というのは年寄り向けと若い人向けではどう違うのかね。」
ときいても店員は要領の得ない返事をするばかり。
「裾上げをするには、どのくらいかかるかね。」「普通は4、5日でございますが。」「明日の朝のうちまでにできるかね。それが出来なきゃ、何日遅れてもいいや。」
ついでに買わなくてもいい、と言われるのを恐れたか、店員はあわてて奥に行き、すぐに戻ってきた。「出来ます!出来ます!」
当たり前だ。この不況にそんなに背広が売れてたまるか、と私はまた腹の中で憎まれ口。

親友のB君は、来年十歳も若い彼女と何十日かのクルーズに出かける。夜のパーテイのためにタキシードを新調したのだそうだ。ずんぐりむっくり、失礼ながら胴巻きに手をつっこんで歩く方が似合うようにも見える。
「それでダンスは出来るのかい。」「いや、俺はしない。彼女がするんだ。ああいう船はお相手を用意しているらしいのだ。俺は椅子に座ってまっているのさ。」
「じゃあ、終わって部屋に入ってからのお相手だな。そんならタキシードがいるのかい。」
「また話がそこに行く。」と彼は照れたようにニヤニヤ笑うが、まんざらでもない様子。一体彼は普段何を食っているのだろう。しかしその彼はこうも言う。
「引退してしまうと、きちんとする機会がなくなり、だんだんだらしなくなってしまう。緊張感を取り戻すために、時に正装して食事などしに行くのも良いものだ。」
私もこの意見には全面的に賛成である。

ガールフレンドのAさんのお誕生日である。本当は24日だが、その日は山に行くから、明日の夜やることにし、家を出るときに、新宿のレストランを予約した。味は知らないが、超高層ビルの天辺に近いから夜景だけはきれいだろう。
お誕生日ならやっぱりプレゼントがあったほうがいいな。普段私はすべて現金決済である。カードを使うとどれだけ使ったか忘れてしまうし、何かの弾みで悪用されないとも限らない。しかしそこを今日は特別と、カードをもちだしてきた。
最初は洋服店だのバッグ屋だの宝石店だの見ていたのだが、いつの間にか「たまには自分もおしゃれしてゆこうか。」背広をいつかは新調してみたいと、思っていた。そしてこの「青山」に足が向かってしまったのだ。

「シャツはいかがなさいますか。」
店員は背広を包みながら、巧みに私をシャツ売り場に誘導する。一旦は断ったが、そういえばそれもいい、という気になった。真っ白の襟に、ストライプなどの模様の入っているシャツは他人が着ているのを見るといつも粋だ、と思いながら買ったことがない。それがいい、という気になった。「こんなのはどうかね。お洒落かね。」「それは格別と言っていいくらいお洒落でございますよ。何しろ襟のところのボタンが二段になっています。」「なんのために?」「首を長くしゃきっと見せるためでございますよ。」さすがに「そんなに若ぶっても仕方が無いさ。」と普通のものにした。
店員はますます調子に乗り「コートもいかが、ネクタイもございます。」と強気。

ようやく振り切って、店を出て、本来の目的を思い出し、バッグ屋に戻って明日のプレゼントを買う。それを抱えながら帰り道に考える。
「明日は、あの背広にいつも着用している白い帽子を被っていこう。」
この前、昔から持っている黒いダブルの背広に、その白い鍔のついた帽子を被った。
それをAさんは評して「この帽子だけがおかしい!」しかし私は主張するのである。ファッションは個性である。背広に白い帽子を被ることこそが私の個性、何か文句があるか。・・・・・文句はある分けはないのだが、こう言われそうな気もする。「いっそ、履物は雪駄か、高下駄にしたら・・・・・。」歳をとって一人前に頑固にもなったようである。

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