日本経済新聞に辻原登が、「韃靼の馬」という連載小説を書き出した。徳川時代の朝鮮通信士の問題を扱い、どうやらその窓口であった対馬藩の話を書こうとしているようだ。通信士は朝鮮国王の親書を江戸に持参するが、その親書に書く呼び名をそれまで日本国大君とていたものを日本国王と変えよ、と言う。幕府お側用人であった新井白石が命じたのである。既に通信士は出発した後である、どうするか、というテーマのようだ。
「折りたく柴の記」は江戸時代の学者、新井白石の名著。昔、買ったものの面白くなさそうだったので、書庫の奥に眠っていた。それを引っ張り出して、読み始めた。
「昔の人は、言うべきことははっきり言うが、そのほかは無用の口をきかず、いうべきことも、出来るだけ少ない言葉で意をつくした。」
と、序にあるが、著者自身そうであったし、そうあろうと勤めたようだ。博識ではあるが、愛想がなく、言い出したら自説を曲げぬ硬骨親父の様子が随所に表れている。
1657年、上総久留里の領主土屋氏の家臣の家に生まれる。3歳で文字を知り、6歳で漢詩を暗誦し、8歳で1日4000字を書き、父の手紙の代筆をし、17歳で学者を志す。1677年土屋家が内紛で改易となり、不遇の時代を迎えた後、堀田正俊に仕える。30歳で木下順庵の門人となり、その推挙で46歳のときに、甲府藩主徳川綱豊に仕え、運が開ける。綱豊が、1709年6代将軍家宣となったからである。しかし1712年に家宣逝去、ついでたった幼少の将軍家継に仕えるも、1716年8歳で逝去。8代将軍吉宗になって、お役ごめんとなり、小石川柳町に隠居する身となる。その後65歳のとき、江戸大火で罹災し、内藤宿六軒町に移住している。
将軍の下での彼の仕事は、ご下問に対し、意見書の形で上司の間部詮房(まなべあきふさ)を通して提出するものであった。綱吉の生類哀れみの令の廃止、武家諸法度の和文への書き直し、裁判の公正さを求めるなどの諸政策は間部−新井ラインで行なわれた、と言ってよい。
また将軍家宣は、非常に学問好きで白石のよほどのことがない限り毎日拝聴したそうで、白石をして「これほど学問を好まれた主君は日本にも中国にもいない。」と言わしめた。
家宣が本丸に移るために、前将軍綱吉の正室にお移りいただく御殿を作る必要があった。しかし国家財政は底をついており、大久保加賀守の下の勘定奉行萩原重秀は無理である、とした。幕府の直轄領は400万石、年々治められる金がおよそ76-77万両、夏冬に賜るご給金30万両を差し引くと残りは46-47万両余りになる。去年の国の費用は140万両に及ぶ。ほかに火災で焼失した京都の内裏の造営に70-80万両もかかる、ご金蔵にはわずかに37万両しかなく、これも使途が決まっている、そのため今後使用しうる財源はない、と言う。これをご工事は必要、金には今年の収入分76-77万両が入っていないし、ほかに埋蔵金などもある、と論破する。
さらに後に白石は、萩原重秀等が、金貨の質を悪くするなどの改鋳を行い、その間に私腹を肥やしているとして追放している。この改鋳の話なども多く記述されており、なんとなく現代と似ているものを感じるところは面白い。
延長であろうか、海外貿易についても否定的である。「およそ100年の間に、わが国の貨幣が大半海外に流れ出している。金は4分の1、銀は4分の3を失った。薬以外で外国に求めなければならないものはない。」などとしている。
家継も白石によく師事した。将軍になったとき、4歳であったから、喪服にすべきかどうかが、議論された。白石は、天下人民に与える影響を考慮し、服喪すべきである、と主張し、その通りとなった。年号に正という字を使うべきか否かについて、使っていいと答えている。
犯罪の処理で一つ面白い話があった。江戸で商売をする松代の男と、農民の娘が結婚したが、あるとき夫がいなくなった。父と兄が「彼は遠くに出た。」と言うので、父の元に戻った。しかし夫は戻らないので心配していると、近くの川で水死体が挙がった。父が反対したが、どうしても心配で駆けつけると果たして、夫であった。役人が調べると父と兄が共謀して夫を殺したことが分かった。二人の男の罪は明らかだが、妻には父の罪を暴いた、という罪の疑いがある。
白石は「三綱(君臣・父子・夫婦の三大綱)の大義をどう考えるか、と言う問題である。父と兄が夫を殺したことを知っていて訴えたのと、結果として知ったのは大違いである。この場合は妻に罪はない。しかし節操を保ってもらうため、尼となることを薦めてはどうか。」と進言している。現代との考え方の違いに驚く。
吉宗になって、譜代大名から嫌われるなどして、白石は間部詮房ともども遠ざけられることとなった。「折りたく柴の記」はその後、書かれ始めたようで、不遇の身を皮肉るように享保元年10月4日「起筆」(家宣命日)、正徳6年(すなわち享保元年)5月下旬「擱筆」(吉宗によって罷免された月)とことさら矛盾した記述をし、新権力者へ抵抗の意思表示をしている。
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読者からのメール。
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この前江戸時代の経済の話を読んでいましたら、意外なことに気がつきました。
その1
幕府は800万石だったが、その内400万石は家来の領地に分け与えていた。実収入は400万石だが、その一割強が大奥の費用に費えた。だから経済的に苦しくなると大奥の経費削減が急務になりましたが、どの老中でもできなかったようですね。・・・・・
その2
本格的な予算管理、重商主義で経済規模を拡大して利益を得た商人に課税をして幕府財政を立て直したのが田沼意次とのこと。末期は商人全盛つまりお金全盛になり、賄賂が横行して失脚したが、彼の時代で幕府の経済力はすごく伸びた。
田沼以前の名君といわれて吉宗なども、町人に課税は思いもつかず、ただただ倹約節約を旨としたようです。経済拡大して利益を得たものに課税するという近代的な考えを取り入れたのはすごいですね。田沼は末期が悪いので悪人の標本みたいに言われますが、良い面もあったのです。
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