月曜日の書道教室でのお話。
半月ほど前、へたくそな文字のチェックに飽きたのかどうかは知らないけれど、先生は「正月も近いので、次回は篆刻をやります。鉛筆だけ持ってきてください。」
年賀状に2,3年前から干支の絵を入れだした。墨絵セットを買ってきて、見よう見まねで半紙に干支の動物を描く。うまい人の作品を見ると、サインと赤い印がべたべた押してある。印はやっぱりあったほうがいい、と考えていた。
簡易篆刻セットのようなものを買った。しかし固定するものなしに石に刃物で刻むと、手を切りそうでかなわぬからやめにした。亡くなったカミサンは縁起を担ぐ方で立派なはんこうを作ってくれた。そのなかに大きな丸いゆうぞうとひらがなで書いたものがあった。とりあえずはそれでたらした。遠くから見たら分かるまい。そんなことがあったから楽しみに待った。
篆刻というのは要するに印鑑作りである。
以下少し先生の話と書物とインターネットで調べた知識。
印の起源は、古く中国の殷代(紀元前1800-1100)にさかのぼるといわれる。最初は古い厳格な篆書体を守った漢印(6世紀半ば頃まで)が使われた。隋・唐(6世紀末-9世紀)あたりまでに少しやわらかい書体に変わってきた。日本で印が使われ始めた時代は、はっきりしないが持統天皇のころだといわれている。701年に制定された大宝律令の中に、印の形式や材料などを定めた印制があり、平安時代まで続いた。寺社で使われた大和古印は遣隋使、遣唐使の影響を受け、やわらかい書体。しかし楷書が入り日本独自のスタイルも一部にあったようだ。武家時代には手書きの花押が用いられ、篆刻は下火だったが、江戸時代になって、一流知識人が篆刻を学ぶようになり、中期には文人趣味として大流行したとか。
我々が使う篆刻文字は普通小篆を用いる。秦の始皇帝は始めて中国を統一したが、文化的事業を二つやった。度量衡と文字の統一。中国北部で発達し、このとき公式文字として使われるようになったものが小篆。ほかに戦国時代石鼓文に用いられた大篆、昔からあった甲骨文、青銅器の表面に刻まれている金文などがあるとのこと。
印の種類に二種類。陰刻は白文といわれ、文字の部分を掘り込み、他を残すから、文字が白く残る。陽刻は朱文と呼ばれ、文字と輪郭を残すから、それらが赤く浮き出る。さらにこれを組み合わせたものも稀にあるようだ。
掛け軸をみるとやたらにべたべたと印が推してあるように見えるが規則がある。書き出しに押す長く比較的大きいものが冠帽印。引首印とも呼ばれ、「大道無門」「日新」など少し主義主張めいた言葉のようだ。もちろん饅頭大好としてもよいのだろうぬ。姓名印、雅号印。姓名印には普通白文、実名以外に別名をつけるものが雅号だが、こちらは朱文を用いる。
先生は自分のアパートに泓鄰閣(オウリンカク)という名をつけたという。春に桜が咲き、近くに小川が流れているのだそうだ。そこで何か水に関係があり、オウという読み方をする文字は無いか、と探して泓を見つけたそうだ。どこかのラーメン屋のよう?雅号はどのようにつけられたか解説がなかった。最後に遊印。こちらは書の最後、左下にひっそりと好きな語句や理想の言葉を押す。
先生は発泡スチロールの板と篆刻用文字の反転文字の一覧表が載っている本を持ってきた。
一覧表の好きな文字を切り分けた発砲スチロールに見よう見真似で写す。線に沿って鉛筆で強く書いていけばいい。反転文字の一覧表で私は自分の名前の悠の字を探し出した。簡単に出来上がった。後は篆刻用の朱肉のようなものをつけ、紙に押してみるまでである。それなりに見られないわけでもない。余り簡単に出来るものだから、後の授業時間をもてあました。
終わってから、荻窪駅近くの書道具屋に行き「一番安い簡単な篆刻の本はないか。」おばさんは分厚い本の間から冊子を取り出してくれた。「「石を彫る」・・・・石印材で手作りのハンコや彫刻を」。150円というから買い求めてきた。様々な人の作った篆刻が掲載されているところが面白く、中には小学生の作品もあった。当用漢字の小篆と印篆の一覧表がついていた。悠の字について調べてみたところ、どういうわけか先生の示した本のそれと少し違っていた。
来年は兎の絵を描かねばならぬ。その隅には自作の篆刻の印を押すぞ!と夢を馳せた帰り道であった。
後記 (22日)半切(35*137)という大きな画仙紙を買ってきて、「少年老易学成難 一寸光陰不可軽」と書いてみた。字そのものよりも字の大きさ、配置がなかなか難しいことに気づく。最後にサインし、作った発泡スチロールの印を押し、「少しは格好がつく」と悦にいった。
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