赤坂見附で銀座線に乗り換えると、車内はもうカラフルな浴衣の娘たちがはばを利かせている。一応に巾着を持っている。茶髪に携帯、大声でおしゃべりだから品は無いが、これも時代の流れか?しかし、こんなのを見ていると日本の和服産業もまだまだいけるんじゃないか、不況なのは工夫がたりないんじゃないか、などと思えてくる。
今日は隅田川の川開きで2万発の花火大会。
花火は古くは戦争の武器の一種として用いられていた。通信用として高所で打ち上げて軍の進退などを示すのに使った。わが国には16世紀に南蛮人によってもたらされたが、武家階級ではあまり重視されなかった。むしろ民間のわざとなり、1613年(慶長8年)、娯楽用の花火を持ち込んだ唐人のものを徳川家康が見物している。
そのころから町方では子供用として花火が流行し始めたが、しばしば火事を誘発したため、万治2年に町うちでの打ち上げが禁止された。そこで水中ならばということで、大川(今の隅田川)で川遊びの始まる旧暦5月28日(川開き)に花火大会が行われるようになった。1727年(享保12年)には大花火、仕掛け花火が起こった。ただ旧暦5月28日は今年は7月8日で、今日は旧暦では6月18日にあたる。
7時過ぎから花火開始、まだ5時半で外は明るいというのに浅草駅は相当の人出。明石の歩道橋事故でまずいと考えたのか、おおぜい、おまわりさんが出ていて、出口から吾妻橋の向こうまで一方通行、「立ち止まらないで下さい。」の連呼がうるさい。
アサヒビールの食堂は予約客しか入れない。どこぞのビルの屋上に上るわけにもゆかぬ。別段、川べりに自由席があるわけでもなさそう。
仕方なく腹ごしらえをして7時くらいに出てくると、もう人波にもまれるだけ。どこかで大きな音がし、花火が始まったらしいのだが、建物の陰になってなかなか見えない。やっと言問橋に向かう途中の公衆トイレの近くに空間があり、そこからビルの谷間に光っているのが見えた。しかし仕切られた空間に見える花火であっても、なかなか美しく情緒があるものでうれしくなり、そこで見始めた。
そのうち下流でも花火の音がし始めた。どうやら隅田川の花火は吾妻橋をはさんで上流と下流でやるらしい。だからあの橋の上が一番の見物場所なのだ。
西洋花火は火薬をプレスして作るので色の変化がないが、日本の花火は別々の色を出す火薬を幾層にも重ねて丸めたものである。色の変化は昔化学の時間にやった炎色反応を思い出せばいい。紅色は炭酸ストロンチウム、緑は炭酸バリウム、黄色はシュウ酸ソーダ、青色は酸化銅、銀色はアルミニウム、金色はチタン合金という具合である。講釈はともかく、とにかく色や爆発の仕方に変化が多くて楽しい。
ところで三尺玉は直径90センチ、重さ300kg、600メートルもの上空まで打ち上げられ、直径500メートル以上の花火を開かせるからどこからでも見えるはずなのだ。しかし近くは建物の影になって見にくいことおびただしい。
考えてみると、たとえば20メートルの建物から10メートル離れて300メートル先で打ち上げている花火を見るとすると、タンジェントの法則で600メートル以上上空でないと見えないということになる。
吾妻橋近くに戻ると橋の袂に3階建てかそこらの木造の料理屋があった。屋上で何人か優雅に花火見物を楽しんでいる。誰かが「あの料理屋をブルドーザーでこわしてしまいたい!」とつぶやいているのが聞こえた。
本当に蒸し暑い。もう、花火などあきらめて、ジベタリアンを決め込み、タバコをふかしたり酒を飲んだり、あるいは彼女と怪しげなことをしているものまでいる。若者は花火でなくてもよいが、とにかくイベントを求めているのかもしれない。
8時半、花火がぴたりと止んだ。おまわりさんの指示では吾妻橋を逆方向に行くことはまかりならぬ、ということなので言問橋を回る。橋の上から見ると屋形船が沢山繰り出していた。なるほど、屋形船からの見物なら充分見られる、花火見物の原点はあれだ、今度はあれにしよう、と考える。
銀座線浅草駅がものすごく混んでいたので疲れた足をひきづって上野まで歩いた。ただ暑くて疲れて、もうどうしようもないのは我々だけではない。浴衣で正装してきた女の子も今は裾をはしょったり、胸をはだけたり、袖を肩までたくし上げたりしている。ふと浮世絵でそんな絵を見たことは無いが、江戸時代の女性もあんなことをしたのかなあ、と考えた。
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