842「死者は私をどう見ているのか」(2月25日(木)晴れ)

気圧の関係で南から風が吹き、3月末の陽気とか。
温かく、墓参りには絶好の日。所沢聖地霊園。しかしお彼岸というわけでもないから人影は少ない。広い墓地は雑木林のとなり、そこからのびてきた細い竹が、墓の敷地に広がってきて悩ましい、この前切らなかったから、伸びているに違いない、と考えて小型の鎌を持ってきた。しかし墓は綺麗に雑草がのぞかれ、少し枯れかかった花が活けてあった。「誰が来たのだろう。」
娘婿の母親が、若くしてなくなった。その墓が近くにある。そちらも同じような花が供えられ、綺麗になっていた。
二つに墓に同時に来る者、と考えれば娘夫婦、婿の父親以外にない。後者と考えた。

ここには父、母、亡妻が眠っている。3人が4年おきに亡くなったから、2年おきくらいに誰かの回忌をやったが、それも来年に予定している父の13回忌でオシマイにするつもり。
誠に月日の経つのは早い。「最後に父がなくなったとき、息子に「4年おきになくなっている。次は誰かな。」とじろりと見られたが、しぶとく私だけが生き残っている。
手を合わせながら、死者たちは今の私をどう見ているのだろう、と考えた。しかしそれ以上の感慨は沸かぬ。死者は過ぎてしまったことと忘れられる。もう3人の生きた痕跡は、ほとんど残っていない。父の描いた沢山の洋画がある。相当の腕だったから、そのうちの数枚がまだ我が家を飾っている。しかし残りをどうやって処分すべきか私を悩ます。亡妻はお茶が趣味だった。茶道具がわずかに残っているがほとんど使わぬ。仏壇の奥にお茶の師匠の看板。母親のものも、せいぜい写真と古い日記帳くらい。
水で墓を清め、事務的に手を合わせ、空になった桶と古くなった花を持って戻る。

最近「お墓参り代行」というサービスがあるのだそうだ。お墓参りは遠いし、時間がかかるから変わって定期的に花を生け、墓の周りも綺麗にしてあげましょう、と言う商売らしい。
墓を綺麗にし、墓参りする目的は何か。歌の文句ではないが死者はそこにはおらず、もしかしたら「千の風になって」飛び回っているのがオチだろう。
とすればきっと生きているもののために違いない。「墓を綺麗にし」は世間体だ。だからこの部分は「お墓参り代行」ですむ。しかし墓参りは、そこで何か自分自身を見直す機会なのかもしれない。その部分は代行では意味がない。現代ではそこで「代行」を使うほど、死者は軽んぜられている。死んでしまえばオシマイ、と信じられている。
そういう私自身、何故今日はここに来ているのか、というと暇つぶしと多少の世間的見栄いう考えが一番当たっているように感じる。もう少し具体的に言えば12月に行って、そろそろという気がしたし、3月始めに、長崎をレンタカーで旅行する、そのために少し車になれておきたかったと感じたからにすぎぬ。

最近「生きていることはヒマツブシ」という言葉が実感させられる。幸いなことに当面の生活にはある程度目途がついて困らぬ。後はそれを維持して行くだけで、寧ろ失う不安や恐怖の方が大きい。それ以外は何もない。それゆえに世の老人たちはおしなべて保守的に成るのだけれど・・・・。何かに対する情熱というものが薄れている。自分が死んでしまえばオシマイ。痕跡もなくなり、墓に訪れてもらったところでそこにいるわけでもない。それゆえ墓に入るまで元気にそれなりに幸せに過ごせればいいではないか。
老後の生きがいなどと世間で呼んでいるものは、それまでの暇な時間のつぶし方のハウツーなのではないか。私自身、昔は日々緊張したり、嬉しかったりして床に入っても興奮して寝付かれぬ、などあった。しかし今あるのはそれなりの睡眠、しかも昼間興奮することがないものだから、寝るものの浅い。朝ひどく早く目が覚めてしまう。しまりがなくなり、思考停止に陥っているのかも知れぬ。けれども何かしなければ失って行くばかり。維持するところの難しさ。孤独。限られた時間という恐怖に煽られて、みな趣味だのボランテイア活動だのに、フライパンで煎られた豆のようにはねている、のではないか。人間はどうしてこう不平居士なのだろう。動物ならもっと単純なのに。

夜、娘に電話。「最近お墓参りに行ったかい。」「ええ、1ヶ月くらい前にお姉ちゃんといったわ。」「そうか、お父さんが行ってくれたのかと思った。花が活けてあったのでね。」
それで終わって、ふと寂しさを感じた。子供たちは子供たちだけで行くということか。もう忘れられかかっている、ということか。それから思い至った。向こうのお父さんも一人暮らし、そんなことで不満を言う様子もない、私一人がぼやいていてはいけないな。

註 ご意見をお待ちしています。
e-mail agatha@bekkoame.ne.jp
home-page http://www.bekkoame.ne.jp/~agatha

読者から次のようなメールをいただきました。

その昔、火葬が定着するまでの間は我が国の民間ではいわゆる
埋め墓と参り墓を別にすることが行われていたようだ。現在でも中国の一部で
そういうことがあるようだ。
http://www.tctv.ne.jp/tobifudo/newmon/tatemono/haka.html
結局、肉体は死ねば土に戻る、魂魄は別にあるという考えであれば、そして魂魄が尊

というのならこの両墓制度は合理的かもしれない。
小生も両親や先祖の墓参りには行くが、別に精神的にお参りする気持ちさえあれば
埋めた墓でなくても良いと思う。だいたいが仏事法事言うものは、主催者の満足の
為にやるものだと思う。両親の法事をしてああよかった親孝行が出来たと考えて
満足すればそれでよい。家の仏壇に毎朝毎夕つたないお経をあげている小生は
それで先祖と会話が出来たと思い、結構満足している。
小生はお墓におまいりして、先祖がどう思おうが、両親がどう思おうが、まるで
かまわないとおもっている。要するに今回もここに来て、お参りすることが出来た
。健康でよかったし、その足代も出せる経済状態でよかったと満足するのが目的だ。

奇妙な宗教観だと思いませんか。でもこういう考えもあるのです。
僧侶にこの考えを披露すると賛成するお坊さんも結構いますよ。

さらに別の読者より

阿笠さん
本当に、阿笠さんは「不平居士」ですね!
人生とはそういうものです、恵まれてることを恵まれていると素直に感じることが出来ることが幸せではないでしょうか。
生有るもの全てはいずれ無になるものです。不老長寿は夢のまた夢です。

・・・・・これについての阿笠の返信

メールをありがとう。その通りですね。
不平なんか言っていても仕方がありませんね。
最近知った歌の一説:
悩みは誰でも知っている/この世は悲哀の海だもの/泣いちゃいけない男だよ・・・・。

でも時に不平をそれとなく、ぶちまけてみたくなるものです。
お許しください。