長崎に旅行に行ってきた。
正確には唐津、平戸、長崎、雲仙の4泊5日、9日に東京をたち、13日に帰ってきた。移動手段はレンタカー、トヨタのヴィッツ。今回感動したことをいくつか揚げてみたい。
1 陶芸の美しさ
最近辞めたが、一応10年以上陶芸をやった。しかし他所の焼き物に余り感心を持たなかった。今回は唐津で中里太郎右衛門の工房を見学、更に伊万里焼のふるさとの一つ大川内山(おおかわちやま)集落を見学してきた。初歩的な話で恐縮だが伊万里焼と有田焼はほぼ同じもの、と知った。大川内山は佐賀鍋島藩の御用窯が置かれていたところであり、高級品は「鍋島」とも呼ばれている。30数件の窯元がその伝統と技法を受けつぐと同時に、現代の生活にマッチしたものも数多く作っているようだ。女流伝統工芸師や片岡鶴太郎の作品が目に付いた。後者は絵つけだけするらしい。
2 平戸城の美しさ
宿泊した旗松館の部屋はまったく眺望のよい位置にある。正面海の向こうに平戸城、むこうに平戸大橋、その平戸城が夜にライトアップされて一層映えている。二つの櫓もマッチし実に美しい。城としてはそれほどのものではない。安土桃山時代の末期に、松浦鎮信によって築かれた城も何度か建て替えられ、現在のものは1962年に再建されたものという。けれども司馬遼太郎が「景観の中の城として日本で最も美しいのは平戸城だと想う。」と言ったというだけのことはある。
3 如己(にょこ)堂
浦上天主堂の少し向こうに如己(にょこ)堂。
藤山一郎のヒット曲「長崎の鐘」は、永井隆博士のことを歌った歌だ。あの20年の8月9日以降、彼は自らも原爆に被災しながら、多くの患者を治療し続けた。しかしふと気がついて我が家に戻ると妻は黒焦げになり、ロザリオが首に巻きついていた。その後博士は、平和を訴え続けたが病状が悪化、昭和26年になくなるまで3年間、この如己堂で過ごしたという。
同行のガールフレンドのAさんはキリスト教徒で「無私無欲で世の中の人のためにつくした永井氏」に感激し、私は妻を失った彼の悲しみに共感した。板張りの二畳くらいの粗末な部屋であった。裏手にある会館に「如己愛人」(己の如く人を愛する)と永井氏の書。
4 出島
出島は実際どこにあるのだろうと思っていた。まったく別のところに模型を作ったのだろう、くらいに思っていた。ところが大通りに面したビルの谷間、昔あった場所に復元したのだという。周囲が埋め立てられて街になってしまったのだ。
1636年完成当時、ポルトガル人をここに押し込めたが、のちに彼らを追い出し、平戸のオランダ人を移住させた。鎖国時代220年間オランダ商館が設置され、ここから海外の文化が日本に伝えられた。海外の衣類、機械など珍しいものを購入するために、日本は当初は銀、後に金、さらに銅を与えた。新井白石の「折りたくしばの記」に、オランダ人に払うために多くの銀が流出した、問題だ、などと書かれていた、のを思い出した。
5 雲仙ジオパーク
私は雲仙温泉のことだけを考えていた。しかし島原半島は全体が活動を続けているとのことだ。1992年に普賢岳が噴火し、火砕流という言葉を有名にしたが、島原半島は過去にこれを上回る大災害を被っている。今から約200年前の寛政4年(1792年)に起きた「島原大変」がこれで、我が国火山災害史上最大の稀にみる悲劇であった。今回の噴火で13の溶岩ドームが出現し、崩落を繰り返して大災害をもたらしたが、5年目を迎えた1998年に島原市はこのドーム部分に「平成新山」との名をつけた。
そのほかにも島原半島には温泉側にあった雲仙地獄をはじめ、多くの地球の営みを如実に示す証拠が見られる。そのために世界ジオパークというものに日本で始めて認定された。ジオパークは現在世界19カ国64地域にあり、日本ではこの他に洞爺湖・有珠山(北海道)、糸魚川(新潟県)
の3箇所が認められている。
そのほかに唐津くんちや長崎くんちも面白そうだった。くんちとは九州北部における秋祭りの呼称。映像や山車の見学だけだったが機会があれば本物を体験したい。それに長崎ちゃんぽん、ひらめの生き作り、ザボンのジュース、みなおいしかった。
いや、あの映画評論家ではないが「旅って本当に楽しいですね。」でも後何回旅を楽しめることか。実は車の運転で苦労したが、そんなものはのど元過ぎれば暑さを忘れる!
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長崎出身の読者からいただいたメール:
1)長崎の諏訪神社の「くんち」は長崎が一年で一番盛り上がるお祭りです。
私もこのところ毎年見に帰っています。
毎年10月7〜9日に行われますので、機会を作ってくんち見物に長崎を再訪問して下さい
2)長崎くんちは諏訪神社の例大祭です。
ご存知のように、長崎は一時カトリック(イエズス会)に大村純忠から寄進され関白の怒りを買って直轄地に編入されました。
徳川幕府もキリスト教を禁じ、長崎奉行の大きな仕事の一つがキリスト教の統制・監視でした。
踏み絵なども奉行所の仕事だったようです(丸山の遊郭の花魁もやらされたそうで、着物の裾をまくってやるので町人が大勢見物にあつまったそうです)
幕府はキリスト教に対抗するために、諏訪神社の例大祭を大いに奨励、援助したとのことです(奉行所から補助金が出ていたのことです)
長崎は、外国貿易で豊かでしたので、貿易の利益の一部を市民に還元していたということで、(子供手当てならぬ祭り手当か)祭り好きの気質が醸成されたのではないかと思います。
キリスト教徒がおくんちのお祭りを妨害したという記録も有ります。
他の神社がおくんちをやっているという記憶は有りません、今は宗教色は感じられない町を挙げての祭りですが、蛇躍りを始め、お祭りの奉納踊りは諏訪神社の境内でまず奉納されてから、町に繰り出してゆきます。